文学とは何か
もっと早く読んでおけばよかった、と思った本の一冊。
最近の読了
テリー・イーグルトン「文学とは何か」岩波文庫 A
この評価はSに近いAである。概説であるので、つまりイーグルトン自身の独創性を強く打ち出した本ではないのでA評価としたが、ここでのイーグルトンの指摘に筆者はがーんと頭を殴られたように感じた。
さて、本書は筒井康隆「文学部唯野教授」のタネ本のひとつということになっている。ので、読まれた方も多いと思うのだが、手っ取り早く1980年前後の、そして第二版の「あとがき」を入れれば1990年前後の現代思想の手っ取り早い概観図となっている。なぜ文学に現代思想の導入が必要になったのか、という歴史的経緯についてもしっかり触れられている。
内容についてはラカンの評価が異様に高いこと、そしてこれは文学評論との絡みなのかもしれないがまちがいなく1945年以降に登場した思想家の中での最大の存在であるミシェル・フーコーについてはあまり触れられていないこと、そしてイーグルトンのラカン読解が正しいものであるか、筆者には判定不能であること(他人のラカン理解にこれだけ大きな差がある、ということは、ラカンなるものは単なる大きな空虚なのではないだろうか?)などの問題はあるのだが、これ一冊でかなり深い理解とパースペクティブが得られる意味はきわめて大きい。
さらに触れておけば、訳者の大橋洋一教授(このひとは唯野教授のモデルとも言われている)の翻訳の正確さ、そして解説の的確さにも感服させられる。
さて、では筆者がショックを受けた箇所についてちょっとだけ触れよう。それは、ラディカル(リベラル)・デモクラシーを標榜するひとびとに対する批判である。かいつまんで要約すれば、
「リベラルを標榜する人間は、他人の意見を受け入れ、それで自分の意見を<<改良>>してゆくことを厭わない。それは称賛すべき姿勢に見えるかもしれないが、そうではない。なぜならそれだけ可塑性を持った自己というものは、単なる空虚な存在に過ぎないからである」
筆者は、デモクラシーが実現されるためには、ハーバーマス的な「自由な討議」が持たれ、それによって意見のすり合わせ・・・これは、最大公約数を採る、という意味ではなく、他人の意見の優れたところを認めあい、自分の意見を修正することを各人が進んで行う、という意味である・・・が生じ、その結果として最良と思われる案が採択される、というプロセスが必要であると考えていた。そしてデモクラシーにおいては、説得能力よりも被説得能力が重要である、と信じていた。
しかし、確かにイーグルトンが言うように、「説得不可能な核」を持っていることは人間にとって必要であるようにも思われる。そして、確かに容易に説得されるような自己とは、最初からどうでもよいような自己だ、という指摘は的を得ているように思われる。筆者にとっては、デモクラシーをどのように実現すべきか、という方法論に対して、難問がひとつ増えてしまったように感じている。
思うに、経済政策上の「新自由主義」と北欧流「社会民主主義」という思想の流れに、正しい解は一見あるようにも、ないようにも思われる。しかし、筆者の信条として言うならば、「全体のパイが大きくなれば配分的な正義が実現されるよりも、すべての国民は経済的な恩恵を得られる」と主張する前者の意見はまやかしであり、そうではなく強者の理論であって分配的正義の実現がまずなされるべきである、という考えが倫理的にも正しく、そうすべきだと考えている。そして、それが説得によって覆るとも考えていない。すると、やはり自分自身も被説得不可能であることは認めざるを得ない。
難しい問題である。













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