禁煙と死刑廃止
インターネットで議論になる政治的な話題で、常に不毛に終わるのがこの二つであり、それは「神学論争」であると日経ビジネスの記事は主張していた。筆者は、これはとんでもない結論であり、結論はかんたんであると思われる。
前者は、民主主義社会においてもっとも「自由」にもっとも高い価値を与える思想であるリバタリアニズム(libertarianism)を信奉するひとびとでさえ、喫煙の自由を無条件に肯定できるような状況にないことから、彼らに取ってすら「喫煙の自由」は既得権として主張できないところまで来ている、のは明瞭ではないだろうか。
その理由は、すでに喫煙をしていないひとびとが人口の半分を超えていること。つまり、これらの非喫煙者の利益を害さないことが喫煙の条件となっているからだ。リバタリアニズムのスローガンは、「他人に迷惑をかけない限り何をしてもよい」というものである。その「迷惑」は、受動喫煙という健康被害以外にもある。医療費である。さいきんの日本内科学会誌にもあったが(と、この記事を書くためにもう一度調べてみたが、みつけられなかった)「タバコによる医療費の損失は数百億円」となっていたと思う。最低限、喫煙者が非喫煙者に「迷惑をかけない」ためには、保険料の支払いを別立てにするか、喫煙による健康被害分をタバコ税で補うしかあるまい。
つまり、筆者の主張は、これだけタバコ関連疾患に対して、さまざまな治療手段が出てきた昨今、非喫煙者に対し平等にその金銭的負担を負わせる、という従来のやり方が、とてつもなく不公平なやり方になってきてはいないか、ということだ。それは、「病気は誰にでも平等に起きるものであるから、誰に起きても不公平にならないように、保険でカバーしましょう」という健康保険の理念が侵害されていることである。いうなれば、モラル・ハザードが生じているわけである。
この議論を持ち出すと、かならずといっていいほど「じゃあメタボも同じだろ?」という反論が返ってくる。筆者は、心情的にはこれに同意する。ただし、政治的にはメタボと喫煙とは同一には考えられない。メタボの原因は食物であり、これは生きていくには欠かせないものだが、タバコは中毒性のある嗜好品であり、むしろ酒に比すべきものだからである。
タバコの話が本題でないからこの辺にしておくが、もし社会が豊かであり、喫煙者の健康被害を社会で負担する、というコンセンサスができているなら、それはありだろう。しかしこのリストラの時代に、そこまで国家に余裕はあるだろうか? 想像するに、喫煙者(愛煙家と言っているが、何のことはない慢性の薬物中毒者である)にとっては、「喫煙している」状態が「自然状態」であり、非喫煙者は喫煙の権利を行使していない人間である、という理解なのに対して、非喫煙者にとっては、「喫煙していない」状態がデフォルトであり、喫煙はわざわざ健康被害を背負い込む行為である、という認識の差が、不毛な論争に至る原因なのだろう。あくまで争点は、「タバコによって発生する膨大な医療費を誰が負担すべきなのか」に絞るべきである。筆者は、それを喫煙者自身が負担するならば、何も文句をいうつもりはない(路上の歩きタバコは論外)。愛煙家が安らかに最期を迎えられるよう、微力ながらちからを尽くしましょう。しかし、筆者の保険料を使うことだけは勘弁、である。あくまで自己責任、自己負担でお願いしたい。
と、前置きが長くなったが、ここでの本題は「死刑廃止」のほうである。というのは、この問題を考える上で、見逃せない記事がふたつインターネットに載ったからである。
ひとつは言わずと知れた「足利事件犯人釈放」のニュースである。彼がもし無期懲役でなかったら、どうなっていたか? もちろん冤罪であることは未来永劫伏せられたことだろう。死刑を廃止すべき理由はそれだけではないが、すくなくとも冤罪によって罪なき生命が失われる悲劇だけは、避けることができる。
もうひとつ、こちらのほうがより興味深いのだが、ある精神医学者たちが、PTSDにある意味似ている"post traumatic embitterment disorder" という疾患概念を提唱している。元記事は、ここ。
犯罪被害者が救われるには、「許し」が必要であって、「犯人を憎み復讐する」ことによってということは、ありえない。これは古来からいわれていることで、反論の余地はないように思われる(ここで反論されてしまうと、さらに膨大な論述が必要となってしまう)。しかるに、最近のマスコミでは、犯罪被害者の「悲しみや憎しみ」を強調したり、罪刑について被害者が意見を述べることができるようにする、といった方向での報道が圧倒的に多い。なぜだろう? まあ、理由は思い当たらなくもないが。
その「許し」が困難になる理由のひとつ、というよりは、おそらく最大の理由が、このPTEDであると彼らは言っているわけではないが、筆者にはそのように思われなくもない。、世の中や他人に対する否定的な、攻撃的な感情からそのひとを解放してあげることができるならば、何よりもそのような本人に対して最大の救済となることであろう。この状態が病気として認知されるようになる最大のメリットは何よりも、それである。厳罰化は所詮社会防衛のためというよりは被害者の復讐心を満足させるために存在するのだ。だから被害者あるいは被害者家族に法廷で陳述させる、という、刑法制度の根幹を揺るがすようなとんでもない意見が出てくることになる。もともと、私情に駆られた私的な制裁を防止するために、現在のシステムが作られたというのに。
繰り返すが、被害者あるいは被害者家族は、十分に償われるべきである。しかし、それは犯人(より正確にいえば、われわれが100%犯人であると確定することができない被告人)に対して死刑を与えることによってではなく、犯人(とされている被告人)に対して、そして社会に、さらには自分自身に対して、赦しを与えることによってでなければならない。"To err is human, to forgive divine" だから、ひとは神性を持たねばならない、ということになるのかもしれないが。
自分でも理想主義的である発言であるとはおもうけれども、かといってほかに方法があるだろうか? そもそも、日本における刑事裁判の中に、どのくらい冤罪があるのかわかったものではないのだ。それだけでも死刑を廃止するのに十分な事実ではないだろうか。



