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2009年06月 アーカイブ

2009年06月05日

禁煙と死刑廃止

 インターネットで議論になる政治的な話題で、常に不毛に終わるのがこの二つであり、それは「神学論争」であると日経ビジネスの記事は主張していた。筆者は、これはとんでもない結論であり、結論はかんたんであると思われる。

 前者は、民主主義社会においてもっとも「自由」にもっとも高い価値を与える思想であるリバタリアニズム(libertarianism)を信奉するひとびとでさえ、喫煙の自由を無条件に肯定できるような状況にないことから、彼らに取ってすら「喫煙の自由」は既得権として主張できないところまで来ている、のは明瞭ではないだろうか。

 その理由は、すでに喫煙をしていないひとびとが人口の半分を超えていること。つまり、これらの非喫煙者の利益を害さないことが喫煙の条件となっているからだ。リバタリアニズムのスローガンは、「他人に迷惑をかけない限り何をしてもよい」というものである。その「迷惑」は、受動喫煙という健康被害以外にもある。医療費である。さいきんの日本内科学会誌にもあったが(と、この記事を書くためにもう一度調べてみたが、みつけられなかった)「タバコによる医療費の損失は数百億円」となっていたと思う。最低限、喫煙者が非喫煙者に「迷惑をかけない」ためには、保険料の支払いを別立てにするか、喫煙による健康被害分をタバコ税で補うしかあるまい。

 つまり、筆者の主張は、これだけタバコ関連疾患に対して、さまざまな治療手段が出てきた昨今、非喫煙者に対し平等にその金銭的負担を負わせる、という従来のやり方が、とてつもなく不公平なやり方になってきてはいないか、ということだ。それは、「病気は誰にでも平等に起きるものであるから、誰に起きても不公平にならないように、保険でカバーしましょう」という健康保険の理念が侵害されていることである。いうなれば、モラル・ハザードが生じているわけである。

 この議論を持ち出すと、かならずといっていいほど「じゃあメタボも同じだろ?」という反論が返ってくる。筆者は、心情的にはこれに同意する。ただし、政治的にはメタボと喫煙とは同一には考えられない。メタボの原因は食物であり、これは生きていくには欠かせないものだが、タバコは中毒性のある嗜好品であり、むしろ酒に比すべきものだからである。

 タバコの話が本題でないからこの辺にしておくが、もし社会が豊かであり、喫煙者の健康被害を社会で負担する、というコンセンサスができているなら、それはありだろう。しかしこのリストラの時代に、そこまで国家に余裕はあるだろうか? 想像するに、喫煙者(愛煙家と言っているが、何のことはない慢性の薬物中毒者である)にとっては、「喫煙している」状態が「自然状態」であり、非喫煙者は喫煙の権利を行使していない人間である、という理解なのに対して、非喫煙者にとっては、「喫煙していない」状態がデフォルトであり、喫煙はわざわざ健康被害を背負い込む行為である、という認識の差が、不毛な論争に至る原因なのだろう。あくまで争点は、「タバコによって発生する膨大な医療費を誰が負担すべきなのか」に絞るべきである。筆者は、それを喫煙者自身が負担するならば、何も文句をいうつもりはない(路上の歩きタバコは論外)。愛煙家が安らかに最期を迎えられるよう、微力ながらちからを尽くしましょう。しかし、筆者の保険料を使うことだけは勘弁、である。あくまで自己責任、自己負担でお願いしたい。


 と、前置きが長くなったが、ここでの本題は「死刑廃止」のほうである。というのは、この問題を考える上で、見逃せない記事がふたつインターネットに載ったからである。
 ひとつは言わずと知れた「足利事件犯人釈放」のニュースである。彼がもし無期懲役でなかったら、どうなっていたか? もちろん冤罪であることは未来永劫伏せられたことだろう。死刑を廃止すべき理由はそれだけではないが、すくなくとも冤罪によって罪なき生命が失われる悲劇だけは、避けることができる。
 もうひとつ、こちらのほうがより興味深いのだが、ある精神医学者たちが、PTSDにある意味似ている"post traumatic embitterment disorder" という疾患概念を提唱している。元記事は、ここ

 犯罪被害者が救われるには、「許し」が必要であって、「犯人を憎み復讐する」ことによってということは、ありえない。これは古来からいわれていることで、反論の余地はないように思われる(ここで反論されてしまうと、さらに膨大な論述が必要となってしまう)。しかるに、最近のマスコミでは、犯罪被害者の「悲しみや憎しみ」を強調したり、罪刑について被害者が意見を述べることができるようにする、といった方向での報道が圧倒的に多い。なぜだろう? まあ、理由は思い当たらなくもないが。

 その「許し」が困難になる理由のひとつ、というよりは、おそらく最大の理由が、このPTEDであると彼らは言っているわけではないが、筆者にはそのように思われなくもない。、世の中や他人に対する否定的な、攻撃的な感情からそのひとを解放してあげることができるならば、何よりもそのような本人に対して最大の救済となることであろう。この状態が病気として認知されるようになる最大のメリットは何よりも、それである。厳罰化は所詮社会防衛のためというよりは被害者の復讐心を満足させるために存在するのだ。だから被害者あるいは被害者家族に法廷で陳述させる、という、刑法制度の根幹を揺るがすようなとんでもない意見が出てくることになる。もともと、私情に駆られた私的な制裁を防止するために、現在のシステムが作られたというのに。

 繰り返すが、被害者あるいは被害者家族は、十分に償われるべきである。しかし、それは犯人(より正確にいえば、われわれが100%犯人であると確定することができない被告人)に対して死刑を与えることによってではなく、犯人(とされている被告人)に対して、そして社会に、さらには自分自身に対して、赦しを与えることによってでなければならない。"To err is human, to forgive divine" だから、ひとは神性を持たねばならない、ということになるのかもしれないが。

 自分でも理想主義的である発言であるとはおもうけれども、かといってほかに方法があるだろうか? そもそも、日本における刑事裁判の中に、どのくらい冤罪があるのかわかったものではないのだ。それだけでも死刑を廃止するのに十分な事実ではないだろうか。

2009年06月06日

イスラエル&民主主義対民主主義

 だらだらと読んでしまったけれども、是非二冊とも一気読みをお勧めしたい。

最近の読了
 臼杵陽「イスラエル」岩波新書 B
 アレンド・レイプハルト「民主主義対民主主義」勁草書房 A

 いずれも好著。是非読んでみたい。

 「イスラエル」一気に読める本だけに、詳しく内容紹介をする必要はないと思うが、「なぜ中東平和が進まないのか?」という問いに対して、イスラエル側に存在する事情をもっともわかりやすく、説得力を持って呈示した本ではないだろうか。
 ひとことでいうと、イスラエルの政治環境は「どうしようもない」のである。国内でコンセンサスが得られる可能性が考えられないから、パレスチナのひとびと(パレスチナ人とは呼ばないでおこう)との対話・平和共存など不可能なのである。そこで国家統合のための最大公約数として「シオニズム」という思想が登場する、というからくりのようだ。もっとも、そのシオニズムは、「大きな物語」ではもはやなくなっている、という鋭い指摘も述べられている。
 筆者にとってあらためて注意を喚起されたことは以下の二点である。ひとつは、建国時に発生した第1次中東戦争に関して、「アラブ列強に囲まれた弱小イスラエル」というイメージが流布されているが、それはまったくの誤りであったこと。軍事バランスは兵力的にも兵器的にもイスラエル軍の圧倒的優位であって(何せアラブ側には空軍がなかった)、勝利は最初から予想されていたことであり、休戦中にチェコから大量の兵器を仕入れたことは、それを補完する意味合いしかなかったこと。もうひとつは、ホロコースト(ポグロム)の、イスラエルにおける意義。右派ほどホロコーストの意義を強調する、という単純な図式ではないことがよく理解できる。
 さらに、日本人がよく持つ誤解として、労働党は左派、リクード党は右派であり、前者が政権を取らない限り和平は期待できない、というものがあると思うが、労働党は決してハト派ではないようなのだ。そもそも初代首相のベングリオンは労働党党首であったが、決して彼をハト派と考えることはないのではないか。労働党とリクード党は、シオニズムを異なるかたちで表出しているに過ぎない、そう取ることもできる。
 ともあれ、中東情勢のみならず、国際関係に関心を持つかたにとっては必読書と言えるだろう。

 後者も、勁草書房の他のシリーズと並んで、一読の価値ある好著。というか、シリーズ内では本書の価値が最もたかいのではないか。「政権交代論」が全くの誤解であることを統計学的な裏付けを元に立証した学術論文である。民主主義を「ウェストミンスター型」と「コンセンサス型」とに分け、前者が民主主義の基本形であり、より望ましいかたちであるという「常識」が誤りであることを、さまざまなパラメーターを考慮に入れて、反論の余地がないかたちで分析している。
 本書の、日本人にとっての最大の価値は、日本政治が国際的にみてどんな「偏向」を持っているのかが一目瞭然となるところである。例えば、違憲審査を専門に行う憲法裁判所を持っていないことは、硬性憲法でコンセンサス型の政治を取る国としては異例であることや、中央銀行の独立性の低さ、GDP比からみた福祉への予算配分の過小さなども標準から外れていることが理解できる。そういった、コンセンサス型民主主義形態を取る国の水準からずれている項目に関しては、再検討が必要なのではないかと思われる。
 本書を読んですぐに理解できることは、民主党への政権交代論/二大政党制がよい結果を生まないであろうこと、である。その文化の均質性にもかかわらず(もちろん日本にも少数民族は存在するし、その権利を尊重すべきことはいうまでもないが)野党との話し合いによるコンセンサス型の意思決定がなされてきたことは、日本の政治的風土にマッチしていたからだ、という説は説得力があるように思われるし(著者がそう書いているわけではない)、民主党に政権が交代することがあったとしても、従来通り社民党や国民新党との連立政権を組み、自民党とも話し合いで決定するようなかたちになれば、大きな問題はないのかもしれないが。
 最後に、本書の分析中、日本を地方分権型国家に分類しているのは誤りではないだろうか。日本において地方自治体が独自色を出した行政を行っているとはとても言えないだろうし、ひも付きの補助金の獲得に汲々としている状況のなかで、国から委任された業務がかなりのウェイトを占めていることは、周知の事実だからである。

 二冊とも筆者にとってはひさびさのヒットであった。強く一読をお勧めする。

2009年06月12日

夜・夜明け・昼

最近の読了
 マルセル・モース「贈与論」ちくま学芸文庫 C
 エリ・ヴィーゼル「夜・夜明け・昼」みすず書房 

 モースの「贈与論」、名著として有名だが、あまりにも多くの書籍に引用されているため、オリジナルを読む新味に乏しい。もちろん、内容がわるいわけではないのだが。

 エリ・ヴィーゼルの代表作である、この連作・・・高く評価されているし、訳者の村上光彦氏の解説も的確で、うっかりA評価をつけてしまいたくなる。

 そう、本書はある意味では必読である。どういう意味で? イスラエルにおけるシオニストのやり方を理解する上で。エリ・ヴィーゼルはイスラエルの強硬な支持者であることはよく知られている。ホロコースト経験者であることと、パレスチナ人を最初から存在しないものとして扱うこととは、両立するのか? その日本人の疑問を解くために、必読の文献であるように筆者には思われるのだ。

 もう少しよく考えてからコメントを書きたいと思う。特に、「夜」を筆者は無条件に肯定してしまう気には、到底なれない。

2009年06月14日

大菩薩トレイルランニング

 前に書いた七面山トレイルランニングが、雨天(というより、雷)によって断念せざるを得なかったため、比較的近場で、悪天時のエスケープルートが取れるコースを物色していた。無難なのは、戸倉三山〜笹尾根とか、奥多摩三山縦走とかかもしれないが、かねてから歩いていなかった大菩薩をめぐるコースにしようと思った。それが、牛ノ寝通り逆走である。

 逆走とはどういうことか。牛ノ寝通りとは、大菩薩峠から南に延びる小金沢連嶺に向かう縦走路の途中、石丸峠から東へ向かう尾根筋のことである。榧ノ尾山から東側は、ほとんど起伏のない、MTBでのオフロードサイクリングやトレイルランニングの格好のゲレンデとなっているのだが、ここに小菅側から到達することは、時間的に厳しい。東京4:58発の中央線(総武線)各駅停車に乗ると、奥多摩に7:17に到着となる。すると、小菅に着くのが8時を過ぎてしまう。昭文社エアリアのコースタイムでは、石丸峠までが5時間30分、大菩薩峠までが6時間となっている。大菩薩峠着が14時なら、歩けないことはないのだろうが、するとそこなら2時間40分をかけて裂石の大菩薩登山口まで歩かねばならず、バス停到着が17時近くとなってしまう。

 ところが順走なら、上日川峠あるいは福ちゃん荘までタクシーを使うことができるから、時間を大幅に短縮することができる。塩山側の登山口である裂石の標高が約900m、上日川峠のそれが1550m、そして福ちゃん荘に至っては1700mであり、1897mの峠との標高差はほとんどないに等しい。これに比べて小菅は650mくらいであり、2057mの大菩薩嶺との標高差は1400mであり、首都圏近郊の山ではかなりのものである。

 では、そのハンディを克服するには? 答えは、「走る」である。

 小菅の登り口は川久保バス停を選んだ。ここからの取り付きはちょっとわかりにくい(筆者が注意してみていなかっただけかもしれない)。バスを降りたら、すぐにバスの進行方向左側の小道に入るのが正解なようである。ここからは、ひたすら植林のなかを登って行く。途中までワサビ畑がある。この急登がゆるむのが田元橋からの分岐を合わせるモロクボ平である。ここまで約40分弱。ここからは緩い登りになるが、尾根に乗るので気分はわるくない。やがて植林から自然林に林相は変わってゆく。次のターゲットは主稜線に合流する大ダワであるが、その前、ふたたび小菅からの道を合わせると、ほとんど平坦な道になってゆく。大ダワ到着が9:40頃。順調な滑り出しである。

 ここからはほんとうにトレランコースである。MTBの轍のあともある。ここからはほとんど走ることができる。1430mの榧ノ尾山までは一気呵成の走りである。

 さて、ここからは石丸峠を目指してひたすら登りである。丹波からの最後の登りに似ている(当たり前か)。走ることはあきらめ、早足で歩いてゆく。時々、左側の展望がある。が、このコース全般にいえることだが、あまり展望は期待できない。

SDIM0596.jpg

 左が牛奥ノ雁ガ腹摺山、右が小金沢最高点と思われる。

 きつい登りをなんとかこなして、ようやく11時10分に石丸峠。ここは、草原だった。。

SDIM0600.jpg

 ほどなく大菩薩峠。大菩薩嶺がわからみた、峠。

SDIM0606.jpg

 大菩薩領は展望なし。そのまま丸川峠へと下る。さすがに大菩薩嶺を越えると大量の人はいなくなるが、それでも下山するひと、登ってくるひと、いつもの山に比べて、それなりにおおい。峠付近には、若い女性のグループもちらほら。登っていて楽しい山だ(笑)。丸川峠着、0時30分。

SDIM0613.jpg

 ここからはガイドブックによると(三十年くらい前の・・・)「稜線に付けられた道が雨に抉られて歩きにくい悪道」となっているが、そうでもなかった。しかし、急なため、ランニングには適さない。滑らないように慎重に降りてゆこう。裂石の大菩薩登山口に13:10に到着。日曜日を除いて13:20発のバスが利用できるため、これに乗って戻った。しかし、東京に到着するのは、それでも16時を回ってしまった。

2009年06月17日

夜・夜明け・昼(2)

 続き。

 「夜」は、名高いアウシュビッツの記録。小説ではあるが、ほぼエリ・ヴィーゼル自身の体験に基づくものと考えられる。「夜明け」は、「夜」の主人公が、イスラエル独立運動の際、イギリス人将校の処刑を命じられる、という思考実験に上にかかれた作品。そして、「昼」は、フランス在留中に体験した事故を通じて、「死者とともに生きている」みずからの状態を語った作品、である。

 筆者の予想では、「昼」では、イスラエル独立運動そのもの、あるいはその後の中東戦争が描かれているのかと思っていたが、それはみごとに、外れた。もしそうであれば、「夜」はあくまでイスラエルおよび中東戦争を正当化するものとして位置づけられるからである。さすがに、強硬なイスラエル擁護論者のヴィーゼルといえども、そこまで露骨な構成にはしにくかったものと推測される。

 そう、ヴィーゼルがプリーモ・レーヴィとちがって、イスラエルをほぼ無条件に肯定している点、「神は死に、わたしは死者とともに生きている」と書きながら、「ホロコースト産業の代表的受益者のひとり」と批判されている点、などを先入観として持っていれば、どうしても批判的に読まざるを得ない、ということは認めざるを得ないが、それでもなお筆者は彼のこれらの連作に違和感を感じるのだ。

 それは、おそらく彼の思考、あるいは感性、感情の前提にある「ユダヤ人は神に選ばれた民族である(はずであった)」という信念、からきている。だからこそ、「ホロコーストを防げなかった、あるいは試練として信者に負わせた」神に対して絶望する(しかしそれでもなおユダヤ人=ユダヤ教信者であり続ける)のである。

 アウシュビッツを経験するとニヒリストになるかどうかはわからない。常識的に考えればパレスチナ人の境遇にも理解と同情を示せるようになりそうである。が、そうできないどころか、イスラエルを擁護するということが、ホロコーストのトラウマであるのかもしれないし、むしろホロコーストを「人類にとっての災厄」ではなく、あくまで「ユダヤ人にとっての災厄」としかとらえられないことが、ホロコースト以前からの(一部の、であろうが)ユダヤ人の病理、であったのかもしれない。


 以上に述べたような意味で、ノーベル平和賞に輝いた一作家の作品としてではなく、イスラエルにおいてパレスチナ人へ無情な攻撃を続ける民族の病理を解剖した作品として、本書は一読に値するように、筆者には思われる。解説の村上光彦氏の文章はとてもていねいにこの作品を読解していることがわかるものだが、筆者はまったく別の観点からこの作品を読んでしまったことになる。

 エリ・ヴィーゼル「夜・夜明け・昼」みすず書房 B

2009年06月18日

忘れないうちに

 購入メモ。こんどから音楽CDについても書くことにする。

先日の購入(本)
 プリーモ・レーヴィ「プリーモ・レーヴィは語る」青土社
 クロード・レヴィ=ストロース「パロール・ドネ」講談社選書メチエ
 吉行淳之介「街角の煙草屋までの旅」
 開高健「戦場の博物誌」以上講談社文芸文庫
 J.フォン・ノイマン/O.モルゲンシュテルン「ゲームの理論と経済行動1」
 中沢新一「緑の資本論」以上ちくま学芸文庫
 福田歓一「デモクラシーと国民国家」岩波現代文庫
 小田実「大地と星輝く天の子(上下)」岩波文庫
 塩野七生「海の都の物語123」新潮文庫
 「宮本常一が撮った昭和の情景(上下)」毎日新聞社
 「思考のフロンティア 壊れゆく世界と時代の課題」岩波書店

 われながらよく買ったり・・・ノイマンの「ゲームの理論」なんて、本当に読むのだろうか。

最近の購入(音楽)
 B.B.King「ジャングル」
 Dr.John「ガンボ」
 Creedence Clearwater Revival「クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル」

 最後のは事実上の全集。

臓器移植法改正(改悪?)

 あいかわらず、報道は偏向しているようだ。まるで、移植に反対するのが悪であるかのように。

 いうまでもなく、筆者は阿部知子議員が支持しているC案に賛成である。

 こういう事態を想像するちからは、ないのだろうか。

 たとえば、小児科医あるいは小児外科医が、比較的からだの損傷がすくない、頭部の病気を診ているとする。そして、救命可能性が極めて低いけれど、0%ではないとする。多くの場合、救命可能性は0%と言いきることは、むずかしい。

 そこで、医師が、「この児は助かっても、植物状態かそれに近い中枢機能不全になる可能性が高い」と判断したとしよう。

 この場合、医師はどのように動くのが正解なのだろうか。考えるまでもない。医師としての倫理は、「目の前の患児の救命に専念する」ことである。

 しかし、このような選択がなされる可能性がないのだろうか。「植物状態の児をひとり作るよりは、臓器提供によって<<健康な>>児を救うことのほうが、価値の高い生命を残すことができる」と考え、治療をフェードアウトしてしまう可能性が。

 というのは、当然ながら、諦めずに治療を粘れば粘るほど、臓器が損傷してゆく度合いは大きくなる。早々に救命を諦め臓器を温存する方針に切り替えれば、それだけ質の良い臓器が入手できる。

 そして、臓器提供を増やせという社会的な圧力が、医師にそのような「生命の質」のチョイスをさせるような事態にならないとも限らない。いや、高知赤十字病院の事例は、一部で、「脳死からの臓器提供の第一号になりたくて、脳外科的に適切な処置を省かれた」可能性がある、という専門家の意見がある。つまり、そういう事態は、すでに起きている。

 つまり、徹底的に重視されるべきは、ドナーにされようという患者の権利保護であって、移植を受けるレシピエントの利益ではない。

 それを、まずはっきりさせるべきだ。

 救命可能性が低い、あるいは後遺症が残る恐れが高い、ような患者/患児への、適切な(これらの患者の生命を救うための)医療行為がネグレクトされる事態、そういう事態がありえないと考えるならば、その人は医療の現場を、医療従事者の思考を知らなすぎる、善意の悪人である。「質の高い生命は質の低い生命を犠牲にしても尊重されるべきである」という、アメリカにおける倫理的極左(極右?)の議論を、日本に輸入しては、ならない。

2009年06月20日

七面山縦走

 渋谷の駅にタクシーで5時に間に合うように乗りつけると、菊名で横浜線に乗り換え、6時発の広島行きひかりに乗ることができる。すると、7:02発の梅ヶ島温泉行きのバスに接続できる。このバスの終点、梅ヶ島温泉までは、約二時間のゆっくりした道のりである。終点に到着するのは8:50。登山の出だしとしては、少々遅い時間となってしまう。

 山と渓谷社の「アルペンガイド」では、この八紘嶺〜七面山のコースタイムは9時間50分、一泊コースとなっている。これは、梅ヶ島温泉で前泊または早朝のバスで温泉入りし、七面山敬慎院で一泊することが前提となっている。これを、8時50分からまともに歩くとすると、登山口へ到着するのは、18時40分となる。それほど非現実的な時間ではないが(後半の下りが敬慎院の参道となるため、比較的安全度は高い)、ちょっときつかろう。また、東京へ帰るのがこの時間ではとてもむずかしくなってしまう(後述)。

 では、どうするか。「走る」という解決策いがいには、ない。


 バス停を降りるとすぐに車道を直進する。けっこう斜度のある道である。ほどなく、左側に取り付きを見つけることができる。もっとも、ここを歩かなくても車道をそのまま行けば、ふたたびこの登山道に合流することができるのだが、それは登山ではあるまい。

 植林の中のよく整備された道で、地形図から想像するほどのきつさは、ない。ジグザグに傾斜を緩和するように付けられた道をひたすら登ってゆくと、やがて先ほどの車道に合流する。車道をそのまま行けば安倍峠である。八紘嶺を目指すには左側の山道に入る。

 傾斜はさきほどの道よりもじゃっかん緩む。いつしか植林は少なくなり、落葉樹の雑木林となる。しばらく歩くと尾根に出るのだが、幅広い尾根から痩せ尾根に変わってゆく。このあたりで安倍峠からの縦走路に出会うはずなのだが、見落としてしまう。で、気付いたら八紘嶺にいたのであった。10:40着。ここまでで2時間弱の経過だ。

 ここで職場から電話があったので、予定より早く帰るべく疾走することとする。でも、実は八紘嶺から七面山までの駿河・甲斐国境尾根は、とても雰囲気の良い尾根で、トレイルランスタイルで疾走してしまうのは、ちょっともったいない。そうこうしているうちに、七面山に着く。ここまで、比較的大きな上り下りが、三箇所くらいあって、体力の温存が必要である。

 頂上でよく地図を確認しなかったので、てきとーに歩いていたら、予定していた北参道ではなく、表参道へ降りてしまった。下山時刻13:40。5時間を切るタイムで、まあまあ満足できた。

 問題はここからであった。身延線身延駅までのタクシー代が6000円強、そして身延線、甲府までの旅客運賃と特急冨士川号の特急料金、さらに新宿までの運賃と、スーパーあずさの料金・・・新横浜=静岡の新幹線運賃も入るのだから、痛い。痛すぎる。


 さて、結論を急ごう。非日蓮宗信者にとって、この七面山は、登る価値のある山だろうか? タクシーの運転手さんは、「八紘嶺から歩いてこれるのは知っているけど、歩いてきたひとを乗せたことはないねえ」と言っていた。しかし、北参道から登り、表参道から降りるという循環コースでは、この山の魅力を味わうことはできまい。なんといってもこの山の魅力は、背後の甲駿国境尾根にあるのだから。

 正直、もっとゆっくり歩いた方が、この山陵の魅力はよく味わえると思う。だから、筆者はガイドブック通り、敬慎院で一泊、翌日下山するプランを勧めたい。下山口には温泉もある。逆に、北参道から登り、敬慎院で一泊、翌日後背の尾根を南下し、八紘嶺から下山、梅ヶ島温泉で一泊、というのも、ぜいたくなプランだろう。

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