メイン

医療 アーカイブ

2005年12月08日

医学概論メモ(戯言ともいう)その1

・医学の目的としている事項は、医学でなければ達成できないか?
 生存期間を延ばす<-->生存しているあいだの生の充実度を上げる
 痛みや苦痛を除去する<-->痛みや苦痛に耐える能力を上げる
 長く生きていることは素晴らしい<-->長く生きることにはなんらの価値もない(という価値観への転換)
・医学の責務は何か
 「健康で文化的な最低限度の生活を送れるよう支援する」
ことだとしておく。さらに生命の維持にかんして
 ・寿命を全うできるような補助(消極的)
 ・寿命を延長できるように介入(積極的)
どちらを目的とするのかによって許される手段は異なってくる

・人間の体に対する暗黙の前提
 生命はきわめて巧妙にできている
これが医学の前提になっているが、成人病というものは、この適応のしくみが新しい人類のライフスタイルのためにかえって災いとなっているという現象であると考えられる
 人体は生命の延長のために改善されるべきである
とすると、
 耐用年数の限られた臓器は取り換えられるべきである
という発想となる。

・生体の価値は、長寿命であるほど進化した形態であると言えるだろうか
 ゾウガメのほうが生命体としては人類より上位なのではないかという疑問
 ある種が成し遂げることのできる能力が、ただすべて生存のためにあるならば、長寿命でないことをもって人間はゾウガメに勝てない

続きを読む "医学概論メモ(戯言ともいう)その1" »

2005年12月09日

眼鏡のはなし(1)

 筆者自身の眼のはなしをすることをお許し頂きたい。

 高校二年のとき、眼鏡をつくりなおそうと思って街の眼鏡屋に行ったのだった。そして検眼をしてもらったときに、その眼鏡屋の店員さん曰く、
 「片眼づつの視力に比べて両眼の視力が出ていません。たぶん、斜位(眼の位置の異常)があるとおもうので、眼科で診てもらったほうがいいです。」
 もともとあまりの眼精疲労のひどさにおかしいな、と思っていたところにこのありがたいおことばなので、高校の先生の紹介で最終的に帝京大の付属病院に受診、当時眼位異常(斜視、斜位)の権威といわれていたM教授の執刀を受けたのだった。診断は「斜位」ということで、水平方向、垂直方向の眼位の異常に対して、両方補正したものだと思っていた。斜視の手術を受けた患者のうち、三人にひとりくらいは眼位が戻ってしまって、再手術が必要になるという話だった。その後、自分の勤務している病院の眼科医に診てもらい、垂直方向(上下斜位)に対する矯正・・プリズムという・・を眼鏡に入れてもらっていた。

 そして、さいきん、読書・パソコン作業時の眼精疲労がちょっとひどいなあ、と感じたところからこの物語ははじまる。

2005年12月10日

眼鏡のはなし(2)

 今かけている眼鏡にはプリズム、すなわち眼位の異常を補正するための偏光が入っている。その眼鏡の処方は眼科医でないとできないと思い込んでいた(これは法律の解釈のしかたにもよるが、正しいという意見もある)。以前の執刀医である帝京大教授のM先生は、現在斜視専門のクリニックを高田馬場で開業しているらしい。そこにしようかとも思ったが、前回のオペのときにイヤな思い出があるために(これは機会があればまた書こうと思う)、お茶の水にある眼科の専門病院を受診することにした。ここは疾患によって担当医が分かれており、斜視・斜位の担当医はなんと院長先生とのこと。一ヶ月以上かかる予約を取って、ふつうに受診をした。
 当然、診察の前に片眼視力、曲率検査、眼圧といったふつうの検査を行い、そこから眼位の異常につきいくつかの特殊検査を行った。その後診察だが、「あまり大きな異常はないですね〜プリズムなしでもいいんじゃないですか?」とのこと。そのあと眼鏡用の検眼となったが、ここには視能訓練士が大量に検査要員として勤務していて、検査は彼らがすべて行うことになっているようだ。わたくしには三人の視能訓練士がついて、最後の眼鏡用の検眼をしてくれたのは比較的ベテランのかたのようであった。遠位用と近位用と、ふたつの処方せんをかいてもらっておしまいとなった。
 そして、そのままこの処方せんで眼鏡を作ってもらおうと思っていたのだが・・・

2005年12月11日

眼鏡のはなし(3)

 ちょっと不審におもったのは、眼鏡の処方せんをもらうときに、そのプリズムで補正した眼鏡での再検査をきちんとやっていないように思ったことだ。
 そこで、疑り深いわたくしは(笑)インターネットで「斜位」「プリズム」などのキーワードを入れて検索してみた。そして、主に眼科や眼鏡店の専門的な記述から、どうやら次のような事情にあるらしい、ということがわかってきた。
・諸外国では、眼科と眼鏡処方は専門分野がちがうと認識されており、後者にかんしては検眼士(optometrist)の国家資格が定められている国が多い
・韓国やフィリピンをはじめ、東南アジアの国でも検眼士の資格を制定している国がおおいが、どうもこの点にかんしては日本は後進国らしい
・検眼士の資格選定にかんしては、メガネの量販店と眼科医が最大の圧力団体となってそれを阻止しているようだ
・眼科の検眼は片眼重視、検眼士の検眼は両眼視を重視している。それは、両眼視の能力が眼病のない一般人にとっては重要だからである
 とくに、わたくしは斜位があることがわかっているために、両眼視の能力に問題があろうことは予想がついた。そして、それを正しく扱うことのできる眼科は日本では少数らしい、ということもわかった。
 そこで、わたくしは天下の某眼科をソデにして、技術力がたかそうな眼鏡店に行って、もういちど検眼をやり直そうと決めたのだった。

2005年12月12日

眼鏡のはなし(4)

 意を決して横浜にある眼鏡店に朝一番に行くことにする。
 店について、ホームページに写真のある店主さんからいままでの状況についていろいろ質問をされる。「やはりあなたはいろいろむずかしそうだから、しっかり検査をする必要がありそうですね」とのことで、某眼科でもやらなかったさまざまな検査(アメリカのoptometristのあいだでは、21項目検査として標準化されているようだ)を行う。その結果、やはり某病院の眼鏡処方は不適切なことがわかった。
 「アナタの場合、遠視では内斜位だけれども、近視の場合軽度の外斜位になるから、これは補正しない方がいい。某病院の近距離用処方では、内斜位の補正が入っているけれども、これは近距離用の眼鏡では逆効果。上下の斜位は近距離、遠距離ともにΔ2.5(5°)だけれども、今の眼鏡はΔ1.5、そして某眼科の処方ではΔ2のプリズムになっている。そして、左眼は乱視があるからこれも補正した方がいい。」

 とのことで、左眼の乱視、および上下斜位の補正としてΔ2.5のプリズムの入った眼鏡を作成したのだった。

2005年12月13日

眼鏡のはなし(5)

 一週間後眼鏡が完成した。やっと合う眼鏡をつくることができて嬉しかったのだが、帰宅後のできごとはわたくしを奈落の底に突き落とすものだった。かけた瞬間、ひどい違和感があるのだ。眼は痛み、肩は張り、吐気を催すといった具合で、とても長くかけていられない。いったいどうしてだろうか? 眼鏡に慣れていないせいかと思い、我慢してかけ続けていると、たしかに少々違和感は改善してくる。そして、実際にスクリーンを眺めたり、本を読んでみたりするぶんにはそれほど問題はないようだ。
 さすがに、思い余って電話をかけてみる。「どうしても合わないようなら無料で作り直しますよ」とのこと。これでいちおうの安心を得た後、インターネットで情報を集めてみる。この眼鏡は左眼に乱視、両眼に眼位を補正するプリズムが入れてある。どうやら、乱視の矯正やプリズムを入れた場合、やはり慣れるまでに時間がかかることは珍しくないようだ。斜位のプリズムによる補正は、左右の斜位(内斜位や外斜位)のばあいはむずかしい面があって、プリズム量の決定のためにはシェアードの公式、パーシバルの公式というふたつが広くもちいられている。しかし、上下の斜位にかんしては、いちおうずれがある量をそのまま補正すればいいということになっているようだ。ただ、プリズムを入れても症状が改善しない場合、プリズムを抜いたり矯正を弱めたりすることはあるようだ。
 ということで、取りあえず作り直しは保留して、眼を眼鏡に馴らしてゆくことにしたのだった。正確には、脳を眼鏡に馴らすということになるが。

2005年12月15日

眼鏡のはなし(6)

 ようやく新しい近距離用の眼鏡に慣れてきたが、まだ古い眼鏡から掛け替えるときに結構強烈な違和感がある。やはり、成人になってから新しく乱視が発生した場合、ぼけた頭でそれに慣れるのはたいへんなようだ。おまけに、プリズムの度数が乱視を入れた左眼に加重がかかっている(上下プリズムというのは要は左右の眼のたかさの問題なので、左右どちらをどのくらい調整するかの配分は任意に決めてもよいのだ)ために、違和感に拍車がかかっている状態になっている。
 やはり、残念だが、この眼鏡は作り替えざるを得ないか。プリズムと乱視の調整はしっかり決まっているのだが、こういうこともあるから眼鏡つくりはむずかしいのだろう。乱視を矯正しないという「逃げ」の処方が幅をきかせているゆえんである。

2005年12月16日

眼鏡のはなし(7)

 本日、遠距離用の眼鏡を受け取りにゆく。通常の遠距離用の度の補正に加えて、左右Δ1づつの垂直方向のプリズムが入っている。某眼科では、「遠距離用のは今のと同じ補正にしておきましょうね〜」といわれて処方せんを受け取ったのだが、その処方せんでは今の眼鏡とおなじΔ2のプリズム(左右Δ1づつ)入っていた。今の眼鏡はΔ1.5プリズムが正しいので、この眼鏡のプリズムの測定を某眼科は間違えていたようだ。
 近距離用の旧眼鏡には左眼に乱視とΔ1.75 upのプリズム、右眼にΔ0.75 downのプリズムが入っていた。足すとΔ2.5づつ補正されることになる。やはり、左右のプリズム量が異なると、わたくしの場合は乱視も相まって違和感が増強されるようだ。残念ながらこの眼鏡は作り替えをお願いした。
 「左右のプリズム量に関してはいろんな公式(シェアードやパーシバル)があるけど、上下に関してはないんだよね。上下はズレた量を全部補正することになってるから。」どうやらそうらしいのだ。では、プリズムを入れない状態で、生体はどのように上下の眼位のズレに対処しているのか。それは、「融像」というテクニックを用いている。つまり、上下の眼位の差がある以上、左右の眼で見ている像は上下方向にズレているのだが、それを頭の中でひとつの像に融合することができるのだ。視るという行為は、眼だけでなく、頭(後頭葉)も活発に働いているものだ、というのがこれをみてもわかる。
 「では、近距離での上下斜位が融像でどのくらい補正されているのか、念のためみておきましょう。」
 いうまでもないが、もちろん眼科ではここまでの視機能検査は行わない。検眼は、あくまで眼じたいに病気がないかどうかの目的で行われるものだからである。
 検査法は、上下のプリズムを入れ、わざと眼位を偏位させて、どのくらいズレると融像がはたらかなくなるのかをみる検査である。つまり、眼の機能ではなく、頭の機能をみる検査ということだ。その結果、かなりズレても融像力ははたらいていることがわかった。
 「上下方向の融像力からみて、中間はΔ2.37くらい、だからプリズム量としてはΔ2~Δ3くらい補正するといいことになるね」ということで、現在のΔ2.5という量が妥当であることをあらためて確認した。逆に、新しい眼鏡のΔ2という補正の量でも問題はないということになる。乱視が入る分、遠距離用の眼鏡よりもさらに違和感が加わるために、遠距離と近距離の眼鏡のプリズム量を同じにしてもらうほうが、掛け替えのときの違和感が減ることが予想された。
 結局、新しい眼鏡は左眼が乱視にΔ1 upのプリズム、右眼がΔ1 downのプリズムとなる。つまり、プリズム量は新しい遠距離用のものと同じようにつくってもらった。
 さて、この新しい遠距離用の眼鏡だが、わずかΔ0.5のちがいとはいえ、結構違和感がある。長年Δ1.5のプリズムに慣れてきたためだ。とりあえず、慣れるためにはきつくても連日かけると頭が慣れてきてくれるはずだ。しかし、もう年なので(冗談ではなく)二週間から一ヶ月くらい慣れには時間がかかることは覚悟しなければならない。計算上は、以前のプリズムよりも外眼筋には負担がかからないはずなのだ。

2005年12月19日

診療報酬引き下げ

朝日新聞によると、過去最大の医療費の引き下げが行われるそうだ。
 まーいいけど。
 この問題にかんするわたくしの意見は繰り返しになるが以下の通りである。

 まず、C/P比をみたばあい、日本の医療はまちがいなく世界一(これは筆者の意見ではなく、WHOもそのような算定をしている)。その理由は国民の負担額がすくないからだ。この世界的にみて少ない(というより、ある医療の水準を実現するために必要である、と世界の水準がみとめるコストより少ない)医療費をさらに削減することは何を意味するのか。病院としてはさまざまな対策が考えられるが、
 A)収入増・・出来高制が認められているうちはよりたくさんの検査を行い、入院日数を増やす(土日の退院を減らす)。差額ベッド代を上げる。人間ドッグやワクチン接種など予防医学で稼ぐ。
 B)支出削減・・ジェネリック医薬品の採用、儲からない患者の排除(長期入院など)、人件費の削減
 思いつくままに挙げてみたので、実際にはもっとさまざまの策が取られるだろうが、もんだいなのは最後の一項である。例えば、「医師の収入が高すぎる」という議論は前からあるのだが、これを削減することが日本の医療にとって致命的な結果になることはほとんど認識されていない。
 現在の日本で、一世帯の平均年収は700万円と言われている。上位50%くらいの平均を取った場合、正確にはわからないが、1000万円を下回ることはないであろう。
 開業医離れが進行しているいま、日本の医療の大部分を担うのは勤務医になりつつあるが、彼らの平均年収は1200万円と言われている。これは高すぎるのだろうか。
 医師が収入を得るようになるためには、まず医学部を卒業する必要があるが、これには六年間、つまりふつうの大学生よりも二年余計にかかる。かつ、昨今はいわゆる論文博士を認めないような方向にすすんでいるために、医学博士を取得するためにはさらに四年間の大学院課程が必要になる。
 また、さいきんでは二年間の研修期間に収入が保証されるようになったとはいえ、この間の収入は月20-30万である。通常の大卒のサラリーマンとそう変わらない。さらに、最近は二年間の研修が終了したのちに、さらに専門的な研修をする医師が増えているが、その際の身分は非常勤医であり、年収は病院にもよるだろうが、アルバイトをしない場合は5,600万くらいだと思われる。
 以上の事実から、勤務医で一生を終えるとした場合の生涯賃金を計算してみよう。博士号は取るが留学はしないと仮定しよう。また大学の医局には所属はしているが、大学で勤務することはないとしておこう(これはあまり一般的でない仮定である)。

 24歳で卒業
 26歳で初期研修終了
 30歳で専門研修終了
 34歳で大学院卒、博士号取得
 60歳定年

 360 x 2 + 600 x 4 + 1200 x 26 =34,320

 かりに大卒サラリーマンの生涯平均年収が1000万だとすれば
 1000 x 38 = 38,000

となる。大卒サラリーマンの平均年収1000円というのは、少々高すぎるかもしれないが。
700万で計算しても、700 x 38 = 26,600 となる。医師免許を取得するのに必要なコストと労力、医事紛争に巻き込まれるリスクや夜間・休日の呼び出しといったデメリットを考えると、8000万(38年で割ると年間200万)の収入は、わたくしには妥当とは思われない。これは税込みの金額であり、この200万にさらに税金が累進でかかるのだから、手取りにすると140万円くらいになるだろうか。むしろ、裁判なし、夜間・休日の呼び出しなしという条件なら、手取り140万の収入はなくなってもよい、と考える医師が大部分だろう。
 この収入から、さらに減ることが予想されるとしたら、やる気と実力を兼ね備えた優秀な人材は、もう医療の分野には参入してこない、とみるのが妥当だろう。つまり、現在の教師のような運命を医師もたどると見てよい。もし、現在の学校をめぐる諸問題に対しても国民が納得しているのだとすれば、今後医療の給付の水準が低下しても裁判に訴えるなどの方策を禁止することが衡平だろう。それならば、収入が減少しても医療業界は歓迎するだろうと思われる。

2005年12月20日

目薬のはなし(ドライアイについて)

 わたくしはかなり強度のドライアイである。ドライアイの治療はいろいろあって、よく使われているものは以下のようになる。
 1)目薬(後述)
 2)涙点プラグ(下涙点にシリコン性のプラグを局所麻酔下に入れる。取り外し可)
 3)特殊繊維による保湿
など。シェーグレン症候群(膠原病の一種)などの重症のドライアイでは、涙液の分泌不全による乾燥がおおいが、通常のドライアイは蒸発がはやいことが原因である。
 なので、通常は点眼を頻回におこなうことになるが、問題はこの点眼薬の種類である。むかしはコンドロイチン硫酸(コンドロン)がよく用いられていた。今は、ヒアルロン酸の点眼液(ヒアレイン、ティアバランスなど)が好んで用いられる。これは保湿作用や傷ついた角膜の修復作用があるといわれている。単純な乾燥感の軽減には人工涙液(マイティアなど)が用いられる。
 しかし、ドライアイでは、薬剤による角膜障害がよく生ずることが知られている。ので、防腐剤を含まない点眼液の使用が推奨されるのだが、残念ながらヒアルロン酸点眼液にも人工涙液にも通常は防腐剤が用いられているので、そのようなものの使用はあまり好ましくない。といいつつ、厚労省はこれらの点眼を保険適用にしているのだ。
 防腐剤を含まない点眼には以下のようなものがある。
・ヒアレインミニ (0.1%と0.3%のものがある)
・ソフトサンティア
 ヒアレインミニは一回使い切りのヒアルロン酸点眼である。ここで注意しなければならないのは、ヒアレインミニには「ドライアイ」における健康保険が適応されていないことである。すなわち、これを用いるときには「シェーグレン症候群」の保険病名(健康保険が支払われるための病名)をカルテに記載する必要がある。また、ソフトサンティアは、塩化ナトリウムと塩化カリウム、そしてホウ酸のみを含む人工涙液であり、防腐剤を含まないために10日前後で一本を使い切らなければならない。そして、残念なことにこれは健康保険の適応とはなっていないOTC(over the counter)薬、つまり薬局で購入できる薬剤となっている。10本単位で、1500円から2000円のあいだで売られているようだ。納入価はだいたい1000円前後のようである。

 だが、はなしはこれで終わらない。防腐剤がなければいいのかというと、決してそうではないからである。頻度は稀らしいのだが、ヒアルロン酸じたいにアレルギーを持つばあいがある。このばあいは、ソフトサンティアのみの点眼として、症状がよくなるかどうか観察するという方法で診断をすることになる。どうしてこのようなことを書くかというと、どうやら筆者じしんがこのヒアルロン酸のアレルギーを持っているらしいのだ。ヒアレインミニを使用していたのだが、点眼後に眼の違和感と乾燥感をかえって感じ、使用し続けていたらどうやら結膜炎を起こしたようなのだ。ソフトサンティアのみの点眼とすることで症状がよくなったため、どうやらヒアレインに対するアレルギーを持っている、と判断するのが妥当なようだ。なので、まずは防腐剤をふくまない点眼の使用がお勧めなのだが、それでもダメなばあいもあることはいちおう知っておいた方がよい。いちばん無難なのはソフトサンティアのみの使用である。しかし、涙液分泌不全のあるシェーグレン症候群のかたの場合、たいていはソフトサンティアのみでは不十分である。

 なお、不適切な眼鏡の使用、パソコン作業のしすぎ(VDT症候群)によっても、ドライアイは悪化する。近距離、とくにブラウン管や液晶をながく眺める仕事の方は、筆者のように近距離用の眼鏡を信頼できる眼鏡店で作成することをお勧めする。

2005年12月22日

安倍晋三

 某サイトより
「メル友のALS患者激励 安倍長官が官邸に招待」だと。

 ALS(amyotrophic lateral sclerosis)は、あのホーキング博士が罹患して一躍有名になった疾患。徐々に四肢の筋力低下が進み、発症して数年後に球麻痺(嚥下機能)や呼吸筋の麻痺が生じてくる。そうすると人工呼吸器の装着を余儀なくされ(実際の装着率は三割程度に止まっている)、意志を疎通させる手段として最後に残されるのは外眼筋のみ(視線と文字盤を使用する)というTLS(total lock syndrome,閉じ込め症候群と呼ぶ)の状態となってしまうという病気である。
 こういった難病とそれを支える福祉の欠陥を世に知らしめるという意味では有益な行動なのかもしれないが、これは公私混同なのではないか。激励は必要なのかもしれないが、政治家としての人気取りに過ぎないのではないか。ALSの在宅介護における問題のうち、あの「痰の吸引問題」(人工呼吸器装着の有無を問わず、医療従事者あるいは家族のほかは痰の吸引を行ってはならない)といった、バカバカしくしかも解決が簡単な問題にメスを入れるなど、このひとたちにできる政治的行為はいくらでもあるからだ。

 また、話は変わるが、筆者は「難病の子供が多額の寄付を集めて渡米、移植に成功」といった記事にはとても不快感を覚えるのだが、それはまたいずれ項を改めて触れよう。

2005年12月23日

眼鏡のはなし(8)

 新しい遠距離用の眼鏡にも一週間でどうやら慣れてきた(まだかけると前頭部に圧迫感を覚えるかんじがする)。それをかけて、作り直しをお願いした近距離用の眼鏡を取りに行った。遠距離用の眼鏡がかけたときに左が下るような気がする旨伝えたところ(前の眼鏡でも起きたことだ)、あらためて耳のかたちをよく見てもらい、「右左で高さがちがいますね。右耳が低いですね」ということで、再度フィッティングをやり直して、もんだいなくかかるようになった。
 最後に、予期していたことではあったが、「どんなお仕事ですか?」と尋ねられてしまった。まあ、隠していてもしょうがないので「内科医です」と告げる。

 そもそも、左右の斜位のために疲れがヒドイのではないのかと疑っていたのだが、こんかいの諸検査では左右の眼位の異常はわたくしのばあい問題にはなっていなかったことがわかった。上下の斜位については、どうやら18歳のときの手術の影響(と、たぶん年齢による慣れがむずかしくなっているもんだい)のために、調整がふつうよりむずかしかったようだ。作り直しを余儀なくされてしまい、申し訳なかったと思っている。
 さて、新しい近距離用眼鏡を自宅に戻って使用してみたが、左眼に入っている乱視矯正のための違和感はあまり感じない。遠距離用とおなじく両眼にΔ1ずつプリズムが入っているが、こちらはすでに一週間の遠距離用眼鏡の使用で慣れているために、前回のΔ2.5の眼鏡の時のような強烈な違和感はない。むしろ、遠距離用よりも快適にかけられる感じがする。フレームだが、遠距離用はわが国のフォー・ナイン、近距離用はベルギーのテオというブランドのものにした。両方とも軽くて違和感はほとんどなく、たいへんよいフレームだ。

 さいごに、お世話になった眼鏡店の紹介をしておく。きちんと眼に合った眼鏡、特に読書やパソコン用といった近距離用を考えている方は、東京からわざわざ足を運ぶ価値がある店だとおもう。
 こちらです。ありがとうございました。

続きを読む "眼鏡のはなし(8)" »

2005年12月28日

医療過誤のもんだい(1)

 まえから、このもんだいについてはきちんとしたものをまとめようと思っていた。危機管理との絡みで専門的に論述されることもあるようだが、あまりバランスのとれたものにお目にかかったことがない。その理由は明白だ。目標がはっきりしないからである。医療過誤を100%防止するような体制作り、人づくりはもちろん必要なのだが、それにかかる直接的なコストと、間接的なコスト、つまり、医療者の萎縮を招き(defensive medicineという)医療サービスの低下を招くという点がほとんどなおざりにされてきたのである。ようやく、小児科救急や産科医の不足というじたいをむかえて、この点が認識されるきっかけは出来てきたとおもわれるのだが、報道をみているかぎり、掛け声だけかければ数が埋まるように錯覚しているようだ。小児科や産科医の不足の原因は大きくわけてふたつである。ひとつは、労働条件がわるいこと。これを解消するには、待遇面(給与)と勤務の実態の改善(労働力をふやし、ひとりあたりの負担を軽くする)のふたつの面で対策が必要なのだが、そういった点に着眼されることはないようである。もうひとつは、広義の労働条件にはいる事柄であるが、医事紛争が多発していること、である。つまり、労働条件を改善したとしても、構造的に医事紛争が多発するような分野では、もう人の増加は望めない状態になっていることを認識する必要がある。「やりがい」というだけでは、もう人はうごかない。リアリスティックな認識が必要だ。

 さて、従来の医療過誤についての認識は、決定的に誤っている箇所がある。それは、はじめから医療行為には「過誤」は100%ふくまれないという仮定である。通常、ある手術の同意をとる際のせつめいとして、「成功率は何パーセントです」という言い方がされる。しかし、この何パーセントは、「最善を尽くしたとしても」という前提のはなしであり、医療の現場には無数に生じる「過誤」のリスクについてはふれられないことになる。筆者の主張はある意味かんたんだ。「医療にははじめから過誤が不可避に発生することを前提に政策を立案せよ」それだけである。たとえば、自動車の自賠責保険の強制加入制度のような、事故を前提にした立法を行わないといけない、ということである。

続きを読む "医療過誤のもんだい(1)" »

2005年12月29日

エコナ

エコナ

 業績がよいという花王の「エコナ」という油をご存知だろうか。最初にこのアイディアを読んだときには「へぇ〜」と感心した。
 通常の油の構造は次のようになっている。

|--- -----------
|--- -----------
|--- -----------

 左側の三つは繋がっている。この部分をグリセリン、左の三つの鎖を脂肪酸と呼ぶ。つまり、中性脂肪は、ひとつのグリセリンにみっつの脂肪酸が結合した物質である。
 エコナの構造式は下のようになる。

|--- -----------
|--- -----------

 グリセリンの代わりに、二価のジアシルグリセロールが使用されている。
 これのどこが凄いのか。脂肪は、吸収されるときに膵臓から分泌されるリパーゼによって、脂肪酸とグリセリンに分解される。このリパーゼの分解酵素の阻害剤が肥満の治療薬として海外では使用されている。そして腸管で吸収され、肝臓で再度脂肪に合成されることになっている。ところが、エコナでは、グリセリンがないために、この再合成が生じない。なので、カロリーにはなるが、中性脂肪の上昇や、肥満を来し難いということになる。

 以前から興味があったエコナ、通販で購入してみた。12本入りだが、ひとにあげるとかいろいろ処分の方法はあるだろうと思っていたのだが・・・
 どうして値段が安かったのか、到着してみて理由がわかった。モノはたしかにエコナなのだが、そのポリ容器に
 賞味期限 2006.3と書いてあったのだった・・・
 ようは、デパートや小売店で賞味期限が切迫した品物が、こういうかたちでネットを介して流通しているのだった。
 スイスの山村氏とおなじく、筆者も賞味期限はあまり気にしない。おそらく、この賞味期限は、エコナの品質保持という観点から少々厳しめに設定してあることはあきらかなので、おそらく一、二年は置いてもだいじょうぶだろう。
 しかし、少々気分がよくないこともたしかである(せっかく健康食品を謳っているのに・・)。

 教訓:安いものには訳がある

 ネット販売にはとくに注意しましょう。古書とおなじ感覚で買ってしまったのはまずかった。。。

医療過誤のもんだい(2)

A 民事補償

 現行の、医療過誤に対する民事訴訟には、以下のような問題点がある。
 1)時間や費用がかかる
 審理のスピードは速くなってきているとはいえ、医事紛争のばあいは通常の裁判に比べて時間がかかる。準備書面の提出を延々と繰り返し、鑑定人を依頼したりして、たいていは半年以内で終わることはない。下級審でも一、二年かかる。また、弁護士費用はすくなくとも一時的には立て替えなければならない。敗訴の場合はこの費用も負担しなければならない。
 2)補償が確実ではない
 医療機関も個人も保険に入っているので、支払能力がないということはないが、保険の支払が裁判を前提としているために、医療者側が和解したくとも、裁判上の和解にする必要があることがある。
 3)判決が裁判所によって異なる
 専門性を考えれば判決に統一性がないのは十分頷ける。また、判決は世論や政府の影響を大きく受け、時代によってどこまでが過失と認定されるのかが変化する。
 4)医療に対する不信感の醸成
 裁判が長期化すれば、感情的対立も激化し、医療への不信感を増長させることになる。
 要は、迅速・衡平・経済といった、民事訴訟の原則に反する部分がおおいのである。
 また、これは鑑定人を裁判所が依頼した場合にいえることだが、鑑定人は主に医療の専門的知識が期待されているわけであるが、大学教授等が選任されたばあい、かならずしも臨床能力がたかくない場合や、一般病院の日常臨床についての知識が乏しい(病院のレベルによって求められる医療水準は異なるというのが判例だが、教授はある病院における医療水準を決定する能力は通常持っていない)ということもあって、妥当性のある判断を下せないケースもある。以上のことは、今裁判所が試みている医療の専門チームを編成したばあいにもまったく同じことがいえる。つまり、ほんらい、ある病院における診療レベルが妥当であるかどうかを判断できるのは、その病院に勤務している<まともな>医師しかいない、というのもあながち極論でもない。この「誰が適切に判断できるのか?」という質問は、医事紛争ぜんたいにとって、そして司法・行政全体にとって、かなりコアな問いだとおもわれるので、また機会があればとりあげることにしよう。

 デメリットのみを挙げるのも衡平を欠くとおもわれるので、訴訟にしたばあいのメリットも挙げておこう。
 1)給付の水準がたかい
 判決をみたばあい、逸失利益からではとても測れない巨額の金額が認定されていることがある。賠償額は、慰謝料+逸失利益となるが(じじつ上裁判費用もここにふくまれる)、この慰謝料がかなり多額に認定されるばあいが散見される。これはひとえに裁判所の心証によるもので、客観性はない。
 2)遺族(存命中では本人)の復讐感情がみたされる
 事故を起こした担当医から賠償させる、ということで、感情面ではよい結果が得られるかもしれない。また、報道されることで、どこの医療機関でもんだいが起きたかということが世間に知られるので、感情面だけではなくて、医療機関の選別にもプラスになる可能性がある。

 メリットについては数えきれていないかのうせいが高いので、思いつくかたはコメントをいただきたいとおもう。

2005年12月31日

医療過誤のもんだい(3)

 筆者の解決策は、保険形式によるものである。すなわち、はじめから「医療過誤」の起きるリスクをコストに含める、という考え方だ。ここで、過誤以外の、許容できる範囲内での失敗をどう考えるか(つまり、手術をしなければ死亡は100%なので手術を行ったが、やはり死亡した、というようなケース)だが、これを同じようなリスクと考えるのはちょっと問題があろう。
 具体的には、医療費の数パーセント(5%程度でいいのではないか)をあらかじめ積み立てを前提に徴収する。そして基金を立ち上げ、医療過誤の際にはそこから支払われる、というしくみである。支払の認定は第三者機関がおこない、医療者側の過失が大きい場合には、医療機関が直接患者(家族)に支払うのではなく、基金に賠償をするというかたちで求償する、ということになる。
 このメリット、デメリットは以下のようなものになる。まず、支払は迅速化される。そして、支払の基準が画一化されるため、公平なものになるかわりに金額は縮小される可能性がある(慰謝料についてはあまり考慮されないということになる)。医療機関については名前が公表されなくなるが、基金への支払が増えれば当然経営は圧迫される。また、過誤の統計的累積が進めば、過誤の割合が高い医療機関については、積立金の割合を増加させる、というかたちで、市場原理が働き、淘汰がすすむようにすればいいだろう。

 現在の方式は「過誤を起こした人間は悪い」という前提に成り立っている。これは、かなりの場合誤りであり、医療過誤は単なる注意義務違反ではなく、状況によってはすべての医療者が起こす可能性があることが看過されている。つまり、十分に注意しさえすれば、過誤は100%防げる、という前提は、筆者は間違っていると考えている。それならば、「過誤は誰でも起こすもの。起きた場合に備えて保険のシステムを作っておきましょう」というかたちで、個々のケースにつきいちいち責任を問う、というやり方は、あまり賢明ではないだろう、と思われる。

 次は、刑事責任を問う、現在のやり方について、行政の視点を絡めつつ述べてみたい。

2006年01月04日

医療過誤のもんだい(4)

 B 刑事責任について

 この問題を論ずるためには、刑法総論の知識が若干必要になる。ただ、業務上過失致死/傷害のばあいには、通常の犯罪のように、「構成要件をみたす、違法かつ有責な行為」という厳格な縛りはなく、ほとんど無過失責任が追求されているのと同様だと考えればよいだろう。
 刑事政策上は、旧派刑法学的な「眼には眼を」という処罰を優先するか、新派刑法学のように、有罪者にはある一定の教育的措置を課すか、というような方針のちがいはあろうが、その政策を決定するのに当たって、優先して考えなければならないことがふたつある。
 ひとつは、大前提として述べた「医療はそもそも過誤を必然的に内包する」という考え方にたつかどうか、である。現在、最も頻繁に生じている業務上過失致死/傷害罪は自動車事故であるが、このばあい、ドライバーは必要な注意義務を満たしていれば事故は生じない、とする考えが出発点となっている。この点、自動車事故と医療事故を同様に考えてよいのか、という問題が生ずる。
 もうひとつは、最終的に保護されるべき法益はどこになるのか、という決定である。医療機関にかかるべき一般市民の権利が保護法益ということになるかと思うが、その法益保護のために刑事罰が有益であるのかどうかという検討が必要になってくる。これは自動車事故では生じない論点だ。というのは、自動車のばあい、事故を起こしたくなければ自動車に乗らない、という選択肢が、プライベートでドライブを楽しむ場合はもちろんのこと、業務で自動車を運転する場合にも全く選べない、というわけではない。ところが、医療従事者の場合、事故を避けようとすれば、職業を変えるという選択よりは、「事故が生じる可能性の高い仕事から遠ざかる」というかたちで防衛反応があらわれる、ということだ。その結果、医療従事者の分布が、リスクの低い部分に必然的に集中することとなり、市民の医療全体へのアクセスが低下する可能性がある。そのことを十分検討すべきである。

2006年01月09日

診療拒否

 「『小児科医いない』と断る=国立病院が警察の診察要請に−柊羽ちゃん、市立病院へ」という見出しだが、ではこのばあい、診察要請を受けなくてはいけないのだろうか。
 生後数日の新生児を引き受けて対処を間違えれば訴えられ、断ると非難されるとしたら、どうしようもないよね。
 もう独立行政法人なのだから、「国立だから小児科医を置け!」という批判はおかしいだろう。経営上赤字になることが必然的なのだとしたら、それは独立行政法人ではなく、厚労省の管轄とすべきだろうから。それが公的サービスというものだろう。
 どうも、民営化の大合唱で、ペイしないサービスまで民間に要求することが当たり前みたいな風潮になっているが、だとしたら政府など必要ないのではないだろうか。じっさい、軍隊や刑務所も民営化している国だってあるし。

続きを読む "診療拒否" »

2006年01月12日

渡米腎移植への不快感

 以前ちょっと触れたような事例が、本日のNHKで紹介されていた。生後数ヶ月で、腎臓がほとんど機能していないため、アメリカで腎移植をするしか救命の方法がない、とのことで、9000万かかる費用を募金で賄う、という話で、寄付のための電話番号まで紹介されていた。
 筆者はこういう報道を見聞きするたびにおおきな抵抗を覚える。まず、筆者が(たぶん医療者としては少数派だとおもわれるが)脳死からの臓器移植にかんしては一切賛成しかねる、と考えていることは置いておく(これについてもいずれ触れる機会があるであろう)。筆者の抵抗感は、やはり公共放送を特定の個人の利益のためにつかう結果になっていることである。つまり、まだしも民放ならば(視聴率稼ぎのために)許せる、と感じる。ほんらいは、民放であっても、電波の公共性をかんがえると、よろしくないと考える。
 つまり、このケースは、「生後まもなくそのような事態になったのは気の毒だ」という感情から企画されたのだとおもうが、渡米して脳死患者からの臓器移植を受ければ救命可能な患者さんは、ほかにもたくさんいる。報道を見て、「自分も・・・」と扼腕するひとびとの存在に思いが至らないのだろうか。
 また、こういう報道は、「日本でも小児の脳死患者からの臓器移植を推進すべきだ」という政治的メッセージを暗にふくんでいるわけだから、さらに問題だとおもわれる。社民党の阿部知子議員(小児科医)は、小児の脳の可塑性を理由に、小児の脳死移植については慎重なかんがえを示していたが、妥当だと思われる。まして、筆者は成人であっても好ましくない、と考えているのだが、それについては社会的なコンセンサスは得られそうもないので、仕方がないと考えている(しかし、自分がレシピエントになるような事態になっても、移植は受けないだろうし、もちろん脳死状態になってもドナーとなるつもりもない)。
 NHKに抗議の投書をしてもいいのだが、筆者が医療従事者であるということで、余計な詮索をされるのも嫌なので、ここに意見表明をしておく。理由はともかく、公共の機関で、ある特定の個人の利益を図るような行動は望ましくない。それは、こんかいのケースが大変気の毒だ、ということとは、何の関係もない。

続きを読む "渡米腎移植への不快感" »

2006年01月17日

風邪

 どうしてこんなに風邪を引くんだというくらい風邪を引く。次々と治らない。特別体力が落ちているという自覚もないのだが、もう年なのだろうか。

昨日の購入 なし

昨日の読了
 エミール・ゾラ「ジェルミナール(中)」岩波文庫

 炭坑を労働者が打ち壊す場面。ゾラは政治的にはドレフュス事件でかれを弁護する立場に回ったように、左だったらしい。

 堀江に事情聴取が。反小泉・安倍派の策動によるものか、それとも政治とはまったく別の意図でなされたものか。しばらく注目したい。
 同じことを楽天の三木谷がやったとしたら、検察も手が出せるだろうか、とおもったのは、たぶんわたくしだけではあるまい。バックに誰がいるか、ということは、これくらいの大物になると重要なのである・・

続きを読む "風邪" »

医者の流出

某所より。

 日本の場合でも、医師の遍在は大きな問題になっている。かつてはこれを解決する方法として、一県一医大制と、自治医科大学の設置が行われた。しかし、まったく解決になっていないことは周知(でもないか)の通り。特に悲惨なのは自治医大の卒業生で、ほとんどサポートなしに僻地に赴かざるを得ないために、十分な医療技術の習得もできず、ノイローゼになってしまう医師も続出したとか。今は、いろいろな抜け道があって、僻地に赴かなくてもいいようになっているらしい。
 今は、新研修医制度の導入のために、かつては「医局」が管理をしていた僻地の病院に人が回せないために、深刻な状態になっていることは報道の通りである。
 一方、東京の伊豆七島や小笠原諸島、長崎県の離島、そして鹿児島県・沖縄県に関しては、意外にも人手は足りているようだ。数年と年限を区切っていくぶんには、離島ならではの楽しみというものがあるのであろう。

 東京などの大都市圏に医師が集中するのはそれなりに理由がある。もちろん、職が多いことも理由であるし、大学病院(医局)との関係を保っておきたいという医師の意識とも関係がある。また、一般的に、やはり地方のほうが労働量も多いし、労働環境も劣悪だ。
 ただ、大都市と地方との医療のレベルの格差は、日本だけでなく、先進国・途上国を問わず、ほとんどの国が抱えている問題であり(シンガポールみたいな小国は別として)、小手先の政策では解決できないものを含んでいる。日本でも、当面現状は変わらないのではないか。まずは、新制度が破壊しようとした医局制度のよい面、すなわち、競争原理が働かない僻地の病院への人材確保、という「公益」を担保していた部分をどうにかしないとならないのだろう。こういうところ、今の「新自由主義」による自由競争の推進、というスローガンは、うまく働かないのは当然である。もし地方・僻地の医師の待遇面を改善するならば、医療の価格そのものも全国一元化することに無理が出てくるからである。
 やはり、こういう公共サービスは、国家や地方自治体のような公共団体が、何らかの責任を果たす必要があろう。市場に任せるという方法では無理である。

続きを読む "医者の流出" »

2006年01月28日

 最近、日本でも靴に対する関心の高まりがあるようだ。たいへん望ましい傾向だと思う。というのは、もともと靴というものは必要悪であって、人間の足に合わせた調整が必要なものなのだ。つまり、合わない靴を履いていると、足(足首より下)を痛めるばかりではなく、膝関節や股関節に負担をかけ、変形性関節症や腰痛の原因になることもあるからだ。それらを防ぐには靴選びが重要なのである。
 もともと、欧州、特にイギリスには、ジェントルマンの文化として、靴にお金をかけるというものがある。この場合の靴は革靴であって、代表的なメーカーがジョン・ロブである。チャーチルをはじめとするイギリスの有名人の足型を残していることで有名なブランドであり、オーダーメードが原則。レディメードでも、日本だと8万円からしたりする。ただ、この手の革靴は、日本人には少々つま先のカーブがキツイのが問題だ。睡眠時以外、あれを家の中でも履き続けているというのはたいした根性だと敬服するが、通気性を考えても足によいはずはない。サイズでいうと、日本人はEEEあるいはEEEEといったゆったりめのサイズを選んだほうがよい。
 日常履くもので、営業のように長時間歩行する仕事をしている場合には、アシックスのランウォーク(むかし、ワラッジと言った)を勧めている。これはビジネスシューズでありながら、長時間歩行のためのさまざまな工夫がなされていて、疲れ難い。そうでなくても、安い靴は長時間の歩行には耐えられず、結局買い替えを余儀なくするために、初めからしっかりした靴を選ぶに越したことはないのである。
 筆者はビジネスシューズを履く必要がないために、同じアシックスのペダラ(アスファルト用と野外用があり、個人的には後者が好きだ)を好んで履いている。また、月星化成から、ウォーキングシューズとして、ワールドマーチというシリーズが出ていて、これは堅牢でしかも軽い。丹沢程度の低山くらいならこれで登れてしまうし、街中を歩くにもよい。歩くことが好きなかたは検討してもよいブランドだとおもう。

 明治時代からの靴の歴史をみてみるのも面白い。最初は当然ながらすべて輸入であり、使用用途は軍隊なのであった。しばらくして国産の靴が登場するが、それもすべて外国のコピーであり、日本人の足型に合った靴というのはずっと作られなかった。十五年戦争(大東亜戦争と呼ぶべき?)でも、靴は徹底的に軽視された。特に有名なのはビルマ戦線(インパール攻略作戦)であり、伊藤桂一氏の「遥かなインパール」によると、靴の所有の有無が生死を分けた、という記載がある。

 新たに靴を購入される方は、「シュー・フィッターのいる店」というのを探すとよい。貴方の足にあった靴をセレクトしてくれるはずである。

2006年02月10日

生理的能力

 当直というのは疲れる。

 夜中、最深度脳波を出して熟睡している(なんてことは、滅多にないが・・)ときに起こされたり、文字通り寝れなかったりする。それだけでなく、筆者のような人間には、床が変わっただけで、あるいは「いつ呼ばれるかわからない」状態で眠るだけで浅い眠りしかできないので、朝五時頃掃除のおじさん・おばさんたちがゴソゴソし始めるともう起こされてしまうのだった。
 筆者はアインシュタインに似て(そういうところだけ似てどうする・・)睡眠不足には極めて弱いたちなので、翌日の業務にとても差し支える。マルクスの「資本論」に、産業革命当時の汽車の運転手たちの話が出ているが、短時間睡眠を強いられたために、事故が続出しており、しかもその責任は運転手たちに押しつけられたそうである。今、それと同じことが医療現場で起きていることは、ほとんど問題にならない。
 以前、都立府中病院(ここもひどい病院で、近くに中核医療機関がないために、都立墨東病院と並んで、都内で最も劣悪な労働環境であるといわれている)で、「当直翌日を休みにせよ」という裁判が実際に起こされた。ここの当直はほぼ完全に起きていることを強いられるので、医師は36時間の連続勤務となる。結局、その結果、翌日の半休が認められるようになったのだが、この裁判のきっかけとなった医師は職場を追われている(ある大学の教授となったが)。同じような実態は、まだほとんどの医療現場で残っている。だから、医療事故など起こって当然、裁判などでガタガタ騒ぐな、と個人的に思っている。

 では、そのような不幸な事故を避けるにはどうすればいいか。さしあたり、スタッフ数/病床数の率の高い、つまりスタッフが比較的余裕のある環境で働いている職場に期待するしかなかろう、と思われる。現行の制度下では、そもそも病院間にかなりの能力の差があることを甘受するしかないのと同じだから(これは諸外国でも事情は同じであろう)、そもそも病院選びはかなり危険度の高い博奕でしかないのである。

一昨日・昨日の購入 なし
一昨日・昨日の読了 なし

続きを読む "生理的能力" »

2006年02月16日

医療費改定

 今、業界はこの話で持ちきりだが、m3(共同通信社)より。

「喫煙の常習者をニコチン依存症の患者ととらえ禁煙指導を公的医療保険の対象とした。生活習慣病対策の一環で、禁煙により将来の病気を防ぎ、将来的な医療費を抑制する狙いがある。」
の報道に対し、JTより
「大変遺憾。喫煙者は通常の日常生活を送っているのに、治療が必要な『依存症』患者とするのは合理的根拠を欠く」
だそうだ。

 タバコに関しては、禁煙が医療費削減の役に立つという分析がある反面、長生きすれば他の病気の医療費や年金費がかかるためかえって国庫負担が増えるという意見や、もっと辛辣なものとしては「企業は使えない40,50代管理職の増加を望んでいない。喫煙関連疾患によって適当に間引かれるのは望むところ」(友人M氏の分析)というものまである。
 個人的な意見を言わせていただければ、「禁煙ができないのはニコチン依存症」だというのは、ものごとの半分しか見ていない。ニコチンパッチなしでやめられるとされる一日20本程度の「軽症」の喫煙者が禁煙できないのは心理的依存のためであり、身体依存のためではない。あくまで、喫煙と疾患との因果関係につき疫学的調査を継続しつつ、喫煙者の保険料負担を増やすのが筋であると思う。また、このJTのコメントには批判が集中するだろうが、たばこを売ることを合法としている以上、非難されるのは企業ではなく、政府であるべきだろう。
 本当に禁煙を推進したいのならば、他にもっとやるべきことがあるのではないか? 小中学生からの禁煙教育が筋であろう。これは成人病についても同じことが言える。

2006年02月20日

個人防衛と集団防衛

225.jpg

 先日、地球温暖化の件で「自由主義と共和主義の闘い」と書いたのだが、それを筆者の仕事に関連付けて少しく考察してみる。
 人間は自由な方がいい。自由な時間と自由に使えるお金を持って、自分の権利を自由に行使する、これが自由主義の理念とするところである。もちろん、他人の自由を冒さない、という最低限の制約がそこに内在されていることはいうまでもない。
 しかし、その自由を誰もが行使できるわけではない。日本の例で言えば、憲法に保障されている「最低限の文化的生活」はできることになっているが、貧富の格差の開大は政府がいかに躍起になって否定しようとしても、実感として感じている方が増えているのは事実であろう。
 そこで、集団によって個人の権利を調整して、誰もがある程度の自由を行使できるようにしよう、という共和主義の理念がある(乱暴な言い方だが)。地球温暖化に対応するためには、各国が行使できる「炭酸ガスを排出する権利」をその国の実情に応じて制限する必要があることは誰でもわかるだろう。「権利の行使」が「公共の福祉」に対立すると考えられる論点である。

 さて、これが端的に現れるのは、細菌感染症に対する抗生物質の使用である。病気を持つ特定の個人のことだけ考えれば、なるべくいろいろな細菌に効く(抗菌スペクトラムが広い)、強力な(抗菌力のつよい)抗生物質を使用した方がいい。外来診療でも、風邪(咽頭炎、扁桃炎)に抗生物質、それもかなり強力なもの(ニューキノロン系抗生剤)が処方されているのをみかける。読者は、副作用のことは措いておいてこれをどう思われるだろうか?
 一見、投与されたその当該個人にとってはよいことのように思われる。細菌感染症があきらかであれば、強力でかつ抗菌範囲のひろい薬を使ってもらえれば確実に効果があると思われるからである。では、どうして抗生物質の種類は山のようにあるのだろうか? 何でも強力なものがよければ、たとえば戦争において、戦艦だけあれば巡洋艦、駆逐艦といった小さめの船はいらないのであろうか。また、一眼レフがあればコンパクトカメラは必要ないのか(笑)。
 もちろんそうではない。狭域には狭域の、広域には広域のよさがある。強力で抗菌スペクトラムの広い抗生物質を濫用すれば、当然耐性菌が増加する。つまり、抗生物質が効かない細菌がセレクトされる結果になる。そして、当該個人にとって利益になっても、集団全体にとってはかえってその利益を損なうことになる。個人と集団の利益は相反するのである。
 これを、公衆衛生学の用語では「個人防衛と集団防衛」と呼ぶ。薬を用いる際には、その個人だけでなく、他の患者(潜在的な患者である健康人も含めて)の利益も同時に考えなければならないのだ。しかし、この考えをしっかり学んで実行に移している医師は少数である。その結果、カルバペネム系抗菌剤のような、「抗菌力が強く、しかもスペクトラムの広い」薬剤の濫用が起きている。
 筆者は外来では可能な限り抗菌剤は処方しないし、入院でもなるべくスペクトラムの狭い抗生物質(つまり、カメラでいえば、10倍ズームではなく、単焦点レンズ)を使用するように心掛けている。そして、重症であり、二日以内に結果を出さないと生命にかかわる場合、そして、考えられる細菌が絞り難く、幅広い抗菌力が期待されなくてはならない場合に限り、これらの広い抗菌範囲を持つ薬剤を使用している。その結果、昨年一年で筆者はほとんどカルバペネムを使用していない。これは医師の中では圧倒的に少数である。別に、自分が腕がいいとかそういうことを言いたいわけではないが。

 もともと、日本は格差や不平等に敏感な社会と考えられている。この真偽はさておき、自由と平等、このバランスについては、いかなる職種の方であったとしても、社会人としてきちんと自分なりの意見を持つことは必要なことであろう、と思われる。フィーリングだけで格差を広げるような政策を打ち出す首相を支持するのはいかがなものだろうか。

2006年02月22日

診療報酬改訂(2)

229.jpg

 m3.comなどで、骨子がまとめられているようだが、はっきりいって「バッカじゃないの?」と言いたくなるような内容だ。一番疑問に思うのは心臓移植の患者負担の大幅な軽減だが、そんなに移植を普及させたいの? 同じ医療費を使えばもっといろんなことができるよ。なんか、こういう方向へ医療が進んでいくのはよろしくないのではないか。個人的には、もっとcommon diseaseに力を入れるべきではないかと考えている。例えば、もう季節は終わりに近づいているが、企業や学校がインフルエンザの患者の出勤(登校)に厳しく縛りをかけるとか、ワクチンの接種率を増やすとか、満員電車でマスクをしていない人間をしょっぴくとか(笑)、まず感染源を放置しないでほしいと思う。電車の中でマスクをかけずに咳をしている道徳観念のないオッサンをみると、後ろから蹴りを入れたくなる。傷害罪を犯していることに気づかせるべきだ。というか、逮捕してもいいと思うのだけれども(ちょっと過激)。

 と、興奮してみても仕方がないので、写真を載せてみました。どんなもんでしょ。

昨日の購入 なし
昨日の読了 なし

続きを読む "診療報酬改訂(2)" »

2006年03月01日

恋の情熱

241.jpg

 まず、某メーリングリストで流れた記事の再掲。

「神経細胞成長因子(nerve growth factor:NGF)に関する興味あるイタリアの研究者の報告として、新しい恋人を見つけた58人のカップルの血中NGFレベルを測定したところ、恋人のいない人、長い間恋愛関係にあるカップルに比べて明らかに高かったとのことである。
 しかし、同じカップルを対象にした1年後の調査では、同じ相手が恋人である場合には血中NGFレベルは既に恋人がいない人たちのレベルに下がっていたと報告されている。
 この報告が正しければ、恋の情熱は普通1年以上続かないことを客観的に示したデータであるといえよう。」

 まぁ、情熱が続かなくても、愛情が長く持続すればいいんじゃないか、という気がしないでもない。

昨日の購入 なし
昨日の読了
 岸田秀「幻想を語る(下)」河出文庫 A
 ケネス・ルオフ「国民の天皇」共同通信社 A

 「フロイドを読む」「幻想の未来」と並んで、河出に収められた岸田秀の書籍の中では出色の出来である。なにせ対談相手がよい。日高敏隆、いいだもも、伊丹十三、そして栗本慎一郎・・・それぞれ専門を異にする数々の相手を選び抜いたのは、岸田唯幻論のよき理解者のひとりである、元「現代思想」編集長の三浦雅士氏である。この対談集の成功のなかばは三浦氏の手腕によると言えるだろう。現在絶版になっているようだが、入手は比較的容易であると思われる。
 ケネス・ルオフは筆者とあまり年齢が変わらない。これだけでも読んでいて鬱になるが(笑)、主に戦前という文脈で天皇制が語られたり研究されたりすることが多いのに比べて、本書の価値を高めているのは、これが戦後の天皇制についての研究本であるということだ。また、建国記念日や元号法制化についての「草の根ナショナリズム」も分析されていて、それが戦前のファナティックなものとは質的にちがって、むしろ新憲法や民主主義と結びついた、非復古的なナショナリズムであるという指摘は、真偽は別として興味深い。戦前からのさまざまな部分が戦後においても残存している、つまり戦後は戦前と連続性を持っている、とは、野口悠紀雄氏の「1940年体制説」をはじめとして、さまざまな論者により指摘されていることだが、そういうことに興味のある方にとっては必読の本の一冊であると思われる。

続きを読む "恋の情熱" »

2006年03月04日

小児科医の激減

 m3.comより。
「ことし4月から大学の医局や関連病院で小児科医になる医師の数が、3年前の半数近くに激減していることが21日、日本小児科学会の調査で分かった。」

 でしょうね。

 日本では諸外国のように成績による医師の専門振り分け制度がない。これは単純にデメリットだけが多いというわけではない。一番のメリットは医師の「やる気」を損なわないということだ。つまり、無理やり決められた専門科でつまらないと嘆きながら仕事をする、という危険は少なくなる。これは患者サイドにとっても利益となることだろう。二番目は、開業医の後継者養成にプラスに働いたということである。医院を潰さないためには、同じ診療科で働く同業者を見つける必要があるが、一番確実なのは金銭が絡まないという意味では自分の師弟ということになる。それが外科医院を継ぐのに精神科では困るわけだ。この論理から、日本医師会は一貫して振り分け制度には反対を表明してきた。ただ、それは今となっては、開業医の既得利益保存のためだ、という批判を受けても仕方がないであろう。今は潰れる開業医も多いし、別の医療法人あるいは個人に譲渡することもできるからだ。
 さて、ここで見逃せないことは、医師ひとりを養成することにあたって、国が補助金を支出していることである。国立医大はもちろんのこと(今は独立行政法人になったが)、私立医大に対しても補助金は支出されている。大ざっぱに言って、医師一人を養成するには年間1000万、6年間で6000万かかると言われている。それだけの金額のかなりの部分を国から払ってもらっている以上(アメリカなどでは個人負担が遥かに大きい)、国の医療政策に従わざるを得ないという理屈は十分成り立つだろう。

 問題は、振り分け制度で小児科医の不足を補うという政策を取ったばあい、モチベーションの低い、能力のない医師が大量にこの領域に投入されることである。これは国民にとってはデメリットとなろう。政策的には、強制的に人員を増加させることでひとりひとりの医師の負担を軽くしつつ、医療費の面で優遇するだけでなく(これは単に医療機関にしか作用しないから)、待遇面での優遇を同時に進めることが必要であろう。そして、少子化が進むこんにち、これらは効率のわるい投資になるわけだから、総医療費からパイを分けあうという方法で考えるのではなくて、特別枠を設けることが望ましいだろう。そして、国民には、その分の負担が増えることに対するコンセンサスを得る努力をしなければならない。それがいやなら、現行の状態はどうしようもないのではないだろうか。それが競争社会の現実を反映したものだとしたら。

続きを読む "小児科医の激減" »

2006年03月07日

訴えたもの勝ち

 m3.comはSo-netが運営する日本最大の医療系サイトである。まじめに見ているとポイントがたまってJALのマイルなどに変換も可能だそうだが、毎日配信されるメールに目を通すくらいである。それにしても最近気が滅入るような事件(裁判)が多い。例えば、きょうは「主婦のたんは粘度が高く、血の塊のようなものが生じる可能性もあり、病院側は頻繁にたんの吸引などを行い、呼吸困難を防止する注意義務があったのに怠った」こんな判決文で病院に6000万の支払いが命じられている。ここはまんざら知らない病院でもない。
 気管切開チューブが痰によって閉塞するような事例はおそらく全国で年に数十件から数百件に及んでいるとみるのが医療関係者の常識だろう。そして、このようなケースでは大抵基礎疾患が脳梗塞等であることが多く、「仕方がないですね」という説明で済まされるケースが多いと考えられる。裁判長が言うように頻回の痰の吸引が必要であるなら、このような患者層が入院している病院のスタッフ数ではとても無理だと思われる。ほとんど医療機関に診療上の無過失を要求しているに等しい判決であると言える。最近の裁判所の風潮はこんな感じなので、救急要請は可能な限り拒否する、家族に問題のありそうなケースはなるべく他の医師(病院)に渡す、など、仕事上でも如何にしてトラブルを避けるか、それを考えることが第一になってきている。これからこの業界に入ってくる新人さんは本当に気の毒だが、社会がそれを望んでいるなら仕方がないだろう。
 また、民事だけで済む問題でもなくなってきているようだ。何と、過誤や事故の認識がなく、24時間以内に警察に届けなかった場合は、逮捕されてしまうらしい!

 今後の業界の動きによっては、製薬メーカーや生命保険会社への就職なども視野に入れて将来を考えなくてはならないようである。大学に入学した当時はこんなことはなかった。今、学生なら躊躇なく進路を変えているだろう。

2006年03月09日

食について

259.jpg
 コメントを期待されているような雰囲気を感じたので、こちらに書いておこう。
 栄養学的には、そもそも人間は毎日食事をすべきなのか、そして一日何食が適当なのか、という根本的な問いについては、回答が与えられてない、と考えている。かのドクター中松は、「一日一食が適当」と主張している。ある意味これは妥当な意見であろう。なぜなら、食事の回数を減らすことで燃費はよくなる。人間の寿命を決定するひとつの因子に、体内の過酸化物質の量があるが、これは当然多くのエネルギーの産生があればあるほど増加する。つまり、理論的には、「少なく食べて大事に使う」方が体は長持ちするはずだ。このためには食事の回数を減らし、基礎代謝を低めに抑える方がよいだろう。
 筆者は、栄養学者の川島四郎氏の「思想」に共鳴するところがおおい。すなわち、自然状態での人間の栄養摂取に近づいた方が適切ではないか、ということである。もともと、人間にとって、野生動物と同じように、毎日食事を取れるという状態の方が不自然であることは十分に考えられる。「体蛋白の崩壊があるから毎日食べるべきだ」という、一見科学的な主張の方が、実は「神話」だということはありうる。例えば、人類の平均寿命に関しては、むかしもいまも20歳まで生き残ったヒトだけカウントするとそれほど変わりがない、という説がある。乳幼児の死亡がなくなったことが余命の延長に寄与しているだけで、そこまで生き残ったヒトの寿命は延長していない、ということになる。すると、毎日食事が食べられなかった時代と、現代とでは、食生活の変化にも拘らず、少なくとも「進歩」はしていないということになる。

 人間の場合、環境の変化のほうが、人体の変化よりもずっと高速に起きてしまったために、現代という新しい環境に人体がついていっていないことは事実であろう。「毎日食べなければならない」「一日三食が望ましい」というドグマは、現状ではひとつの仮説に過ぎないと筆者は認識している。

2006年03月10日

陳情書

 以下の陳情書に賛同を求めるメールが回ってきた。この一例だけにとどまらず、これをきっかけに最近の行き過ぎた警察の介入(これは絶対に裏で糸を引いている人間がいるはず)に一石を投ずるきっかけになれば、と感ずる。
 というか、この事件に発展するまでに、医師会が何のアクションも取らなかったのは、あまりに動きが鈍すぎると思う。武見時代には考えられなかったことだ。求心力が低下しているのだろう。

 法的に記述をすれば、医療に対する業務上過失致死・傷害の適応が、道交法のように無過失責任に近く解釈されるようになっている、ということである。つまり、100%の成功が要求されており、失敗した場合は医療機関側で無過失を証明する必要がある、ということである。そんな状況で、リスクの高い患者を引き受けるのは病院にとって自殺行為に他ならない。なので、救急要請は取りあえず「断る」という手段が、一次・二次救急に携わる機関(つまり、ふつうの病院)にとっての自衛手段となるだろう。
 しかし、問題なのは、事前にハイリスクかどうかが判定できないケースもあることである。こうなると、民事はともかく、刑事訴追を受けるようになるかどうかは、ほとんど宝くじに当たるのを待つような状態になることになる。
 正直、あと2,30年働くとして、自分が「ババ」を引いてしまわない自信はまったくない。

「 陳情書

 平成十八年二月十八日、福島県立大野病院に勤務しておりました産婦人科・加藤克彦医師が帝王切開中の大量出血により患者さんが死亡した件(死亡日 平成十六年十二月十七日)に関して、業務上過失致死罪および、異状死の届出義務違反(医師法違反)で刑事事件として逮捕されました。(死亡日から実に一年二ヶ月が経過しています)

 逮捕直後から、インターネット上などで、逮捕、勾留という事実に対しての驚き、憤り、今後の診療上の不安などが、産婦人科に限らず多くの診療科の先生方より意見が発せられております。

 この件は
1) 前置胎盤に癒着胎盤が合併するという希なケースが
2) 産婦人科医が1人しかいない
3) 僻地の病院で起こり
4) その状況下における最善の医療を提供したが
5) 患者さんは不幸な転帰をとった
ということであります。

 患者さまが亡くなられているという事実に対して、我々医療者がこの事実を真摯に受け止め、心からお悔やみを申し上げるべきであることは言うまでもありませんし、加藤医師および大野病院は民事上の責任を負うべき可能性は否定いたしません。

 しかし、癒着胎盤は全分娩の0.01〜0.04%という希有な疾患であり、さらに、前置胎盤に癒着胎盤が合併する頻度は前置胎盤のうち4%程度といわれておりますので、今回の様なケースの発生確率は極めて希な症例です。特に、癒着胎盤は現在の 医療水準では、事前に確定診断することは難しいとされています。

 今回の場合、帝王切開中に癒着胎盤による出血が多量となり、子宮動脈血流遮断、子宮全摘などの止血措置を施したにも関わらず、不幸な転帰をたどられています。仮に、相当な名医だったとしても、この措置を1人で行うことは極めて難しいといわざるをえません。まさに、今回の事件は、医師個人の問題ではなく、現在の地方僻地医療が抱えている医師不足や、輸血血液の確保難を背景とした医療政策、医療マネージメントの問題であります。

 また、今回のことを考える上で、理解して頂きたいのは医療に100%確実、安全ということはないということです。分娩、帝王切開でも同様です。医療は急速に進歩し、医師はその進歩に追いつく努力と医療の安全性確保について日々努力しておりますが、その危険性をゼロに近づけることはできても、ゼロにすることは出来ません。

 今回のように、診療上ある一定の確率で起こり得る不可避なできごとに対して、その状況下における最善の治療を施した状態においても刑事責任を問われ、逮捕・起訴されるようなことが認められれば、もはや医師は少しでも生命危険のある患者様に対して治療を行うこと自体が医師のリスクということになります。現にこの事件の後、福島県立医大産婦人科は、一人で産婦人科診療を行っている県立病院への医師派遣を中止せざるをえない状況に到っております。

 こうしたことが広がれば、重篤患者のいわゆる「たらい回し」が全国各地で一挙に広がることにならざるをえません。医療現場における事故を、個人の責任に帰着させるのではなく、システムの問題としてとらえ、その発生を最小化していくべきとの考えは、日本以外の国々では共通の認識となっています。今回のように個人責任の追及だけに注目されると、本来このような場合に行われるべき原因追及とその後の対策、再発防も出来なくなる可能性があり、また、システムは改善されず、同様の事案が再びある一定の確率で発生すると考えられます。こうしたことは医療を受ける患者様にとっても全く利益のあることではありません。

 最後に、勾留理由に挙げられている 1) 証拠隠滅のおそれ 2) 逃亡のおそれについては、平成十七年四月に同院に対して強制捜査・証拠書類の押収がすでに行われており、また福島県が事故調査を行い、報告書を作成し、処分も行われていることや、これまで医療事故・医療過誤についての業務上過失致死事件において医師が実際に逃亡した例はないうえに、加藤医師がその後も大野病院唯一の産婦人科医として献身的に勤務し続け逮捕当日も診療中であったことから、これらの理由による勾留の必要性は認められないと考えます。

 以上の理由により、加藤克彦医師を起訴猶予していただくとともに、このような事案の再発防止のために最善の施策を講じていただきますようお願い申し上げます。


平成18年3月○日
福島県立医大産婦人科教授   佐藤 章 」

続きを読む "陳情書" »

2006年03月11日

265.jpg
 先日の登山(とも言えないような低山だが)以来、右の膝を痛めてしまった。あまりに痛いので先日レントゲンを撮ったが、骨折はないようだ。捻挫(関節包の損傷)にしては激痛なので、もしかすると半月板(関節軟骨)の損傷か? と思っていたが、ようやく軽快してきた(と書いていて、変な風に膝の屈伸をしてみたら、やっぱり痛い)。
 Lekiのphotostickを使ったらかなり楽に感じたので、もう一本購入する必要性を感じたのだが、Lekiのスティックは原則ばら売りをしないらしい。Lekiの関連会社でレキスポーツというのがあり、日本では岩谷プリムスが扱っている。これは一本売りをしているようだ。もうスティックなしには山に登れない年齢になってしまったらしい。

 先日、紫が撮れないと書いたが、花によってはうまく発色しているものもある。単に光線が足りなかったからだろうか? たしかに、何度撮ってもブルーになってしまう花はトンネルの中にあったのだった。

昨日の購入 なし
昨日の読了 なし

2006年03月12日

検察

266.jpg
 35mm F3.5の安価なマクロレンズを使って撮った花。こういうのは、コンパクトデジカメだと色飽和してしまってうまく撮れない。撮像素子がある程度(4/3以上)大きくないと情報量が不足してしまう。
(と書きつつ、この写真も色飽和気味)

 福島医大(出身)の医師が起訴されたようだ。検察も引っ込みがつかなくなっているのだろうが、こういうケースで仮に被告人勝訴(無罪)となったとしても、人生を破壊された被告人にできることは、せいぜい国家賠償法によって国家に民事訴訟を起こせるだけで、起訴した検事に対する刑事告発は不可能である。また、被告人勝訴のケースでも、国賠法による求償はかならずしも認められていないのが現状だ。こういうところに、国家と個人の圧倒的な力の差があらわれている。憲法はもともと国家から国民を守るためのものである、というのが近代法の前提(常識)であるが、昨今の憲法改正論議では国民の義務を規定しろ、という声が、政府自民党だけでなく、民主党からも喧しく聞こえてくる。議論としては成り立つと思うが、現実には、そういう議論が正当性を持つのは、実際に個人の強い権利保障が認められている国家であって、日本のように、憲法上の権利が法に定められていなかったり、国賠法のように、定められていても、実際の運用が権力=国側に圧倒的に有利に働いているという実情がある国においては、百害あって一利なし、というのが妥当な判断であると思われる。とにかく、今回の事件のように、国が本気で権力を行使しようとしたときに、個人を守る手段はあまりにもすくないのである。

昨日の購入
 ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」角川書店
 中沢新一「愛と経済のロゴス」講談社メチエ
 ヘンリー・ジェイムズ「金色の盃(下)」
 大岡昇平「成城だより(下)」以上講談社文芸文庫
 マックス・ヴェーバー「古代ユダヤ教(上)(中)(下)」岩波文庫

 このミアーズの本は、アメリカの戦後占領政策を批判した本として、GHQによって発禁処分にされたものである。ヴェーバーの本書、有名な「プロテスタンティズムと資本主義の精神」とともに、大部の「宗教社会学論集」の中核を占める本である。すぐに読むとも思えないし、いずれまた復刻出版されるのだろうが、万一を考え入手しておいた。もともとみすず書房から単行本で出ていたものである。

昨日の読了
 トルストイ「クロイツェル・ソナタ、悪魔」新潮文庫 B

 自らも青年期の放蕩に苦しんだというトルストイによる性を扱った作品。クロイツェル・ソナタって、そんなに悪魔性のある曲とは思えないのだが・・・
 「悪魔」、気の毒な主人公である。美人を見て心に姦淫を思い描いただけで罪なら、筆者など毎日のように重罪を犯していることになってしまう(笑)。

続きを読む "検察" »

2006年03月13日

中心静脈確保の手技

 少々専門的な話になってしまい、興味のない読者の方々の意欲を削ぐこととなり申し訳なく思う。アクセスカウンタもつけていないので、いったい一日何件くらいのアクセスがあるのかも不明である。

 本日、出勤前にみたNHKのニュース、またも医事紛争か・・・職業柄、この世界に入ってから、それなりに報道にはそういう注意を向けてみてきたが、最近は異常なくらい多い。政府・法曹・メディアの暗黙の意思形成がそこには感じられる。
 事例は、がんセンター(神奈川だったように思う)勤務の28歳の研修医(といっても、がんセンターの研修医だから、すでに一般内科・外科の研修は終わっているので、一般病院であればすでに一人前の臨床家として通じるトレーニングは受けているはずである)が、中心静脈確保・・・つまり、末梢の血管からは点滴不能な高カロリー・高浸透圧の輸液をするために、あるいは末梢血管から入れると皮膚の壊死を起こす抗がん剤の投与をするために、心臓に近い太い静脈(内頚静脈、鎖骨下静脈、大腿静脈などがよく用いられる)にカテーテル(点滴のための管)を挿入する際、誤って動脈を刺してしまい、そのために患者を死亡させた、という事例で、書類送検されたというものだ。
 中心静脈カテーテルの挿入じしんは、まったく日常的な手技である。このような事例のどこに問題があるのだろうか。
 まず、中心静脈穿刺の合併症として、動脈穿刺は教科書に記載がある。1%〜数%の発生頻度だから、ほとんどすべての医師は筆者を含めてこれを経験している。つまり、動脈穿刺はほぼ不可避だ。そして、筆者の記憶によれば、代表的な医学雑誌であるNew England Journal Of Medicineに、事前に超音波検査を行って静脈の位置を確認して穿刺を行っても、成功率は不変だという研究が載っていた。つまり、「最善の注意を払っても避けられない合併症」に当たるのである。
 つぎに、このような手技を必要とする患者は、良性の消化器疾患の術前などを除き、まちがいなく全身状態の不良な患者である。本ケースもがんセンター入院中ということからして、おそらく治癒不能ながん患者であったと想像される。つまり、もともと治療行為が介入した場合、その反動で死に至る可能性の高いポピュレーションなのである。
 第三に、もし本物の「研修医」が動脈穿刺をして、死に至らしめたのだとして、それが指導医を含めて書類送検の対象となるのであったら、どうやって医師を養成したらいいのだろうか。100%の成功が常に要求されるとしたら(そもそも中心静脈穿刺では、経験深い医師であってもそれは不可能なのだが)、研修医にそのような手技を行わせることは不可能になる。つまり、今現役の医師が死に絶えたら、わが国にはそのような手技のできる医師は存在しなくなる(正直に白状してしまうと、筆者はそのような状態になることをひそかに希望している)。
 もう少しわかりやすく書くと、ほぼすべての医師が合併症として動脈穿刺を経験している以上、書類送検されるか否かは、ひとえに「たまたま」患者が死亡したか否かのちがいしかなく、すべてのこの手技を行う医師は、潜在的に書類送検される可能性があるということだ。

 正直、このような状況で、毎日医療行為を行うことは、非常なストレスだ。このような報道を見るたびにうつ状態になってくる。本当に、今のような現状を国民は望んでいるのだろうか?
 もしそうならば、アメリカ流のdefensive medicine、つまり「萎縮医療」で医療者は対抗するしかないように思われる。
#「政治家が救急車たらい回しで死亡した」というようなことが起きれば一気に事態は改善するのだ
#ろうが、特権的に扱われるからだめだろうし。

続きを読む "中心静脈確保の手技" »

トレッキング靴

 まだ膝が完治しない。年齢のせいかと思っていたが、はたと靴のせいではと思い当たった。
 筆者は大昔に購入した軽登山靴を所有しているが、ほとんど最近は使用していない。重いからである(笑)。しかも当然のことながらクッション性は皆無で、それは厚手の靴下に期待されていた時代のものである。そこで、いわゆるウォーキングシューズでハイキングをしていたのだが、どうやらそれが敗因であったようだ。
 久しぶりにアシックスのサイトをみていたら、筆者の愛用しているペダラはタウン・ウォーキング・シューズに分類されている。いつの間にか郊外ウォーキング・ハイキング・トレッキング用のシューズが出ていたようだ。このフィールド・ウォーカーやGIIトレッキング、かなりよさそうだ。そろそろ中高年を迎え、老化防止(と写真撮影)のために山歩きを再開したいと思っている筆者のような層が増えているのだろう。

 結論:山歩きで膝や腰の負担を軽減するには、トレッキング・ポールとトレッキング・シューズが必須である。

続きを読む "トレッキング靴" »

2006年03月16日

眼鏡のはなし(9)

293.jpg
 現像ソフトで遊んでみた。

 筆者の眼位は上下にΔ1.5~2、左右はΔ3程度の内斜位がある。今までかけていた眼鏡はΔ1.5のプリズムが入っていたのだが、どうも疲れの原因はその補正だったようである。今新しくつくった眼鏡は一切プリズムによる矯正が入っていないが、以前のものよりも調子がよいようだ。
 しかし気づいたのは、どうも今まで補正がされてこなかった左右の斜位のほうが、より疲れに関与しているような感じなのだ。これを補正するにはΔ1.5程度のプリズム補正を入れる必要がある(シェアードの公式より)。これを入れた眼鏡を常用することには、前回の上下斜位の補正の件から筆者には自信がない。現在のプリズムなしの、つまり空間の歪み感のもっともすくない眼鏡に不都合が出てきたら、作り増しを考えてもよいかと思っている。

2006年03月26日

眼鏡のはなし(9)

293.jpg
 現像ソフトで遊んでみた。

 筆者の眼位は上下にΔ1.5~2、左右はΔ3程度の内斜位がある。今までかけていた眼鏡はΔ1.5のプリズムが入っていたのだが、どうも疲れの原因はその補正だったようである。今新しくつくった眼鏡は一切プリズムによる矯正が入っていないが、以前のものよりも調子がよいようだ。
 しかし気づいたのは、どうも今まで補正がされてこなかった左右の斜位のほうが、より疲れに関与しているような感じなのだ。これを補正するにはΔ1.5程度のプリズム補正を入れる必要がある(シェアードの公式より)。これを入れた眼鏡を常用することには、前回の上下斜位の補正の件から筆者には自信がない。現在のプリズムなしの、つまり空間の歪み感のもっともすくない眼鏡に不都合が出てきたら、作り増しを考えてもよいかと思っている。

2006年03月29日

射水市民病院事件

297.jpg
 六義園。オリジナルはここ。これをオリジナルサイズで見ると、まるで油絵のよう。

 ここの呼吸器外し事件については各種報道がなされているので、事実関係はまだ明らかではないものの、事件の概要についてはご存じの読者がほとんどだと思われるので、感想を記してみる。
 まず、「大胆だな」ということ。当然、患者家族やスタッフ(ナースがおおい)からの告発の可能性については考えるべきなのに、留意した形跡がみられない。ほとんど医師としての自殺行為だ。
 次に、この外科部長はとても「人間的には」まともなのだろう、ということ。現場では、いったんレスピレーターを装着してしまったがために、一見「非人間的な」生かされ方をされているように見える患者が存在するからだ。人工呼吸器を外すことで、それらの患者の尊厳を守る、それが主目的のように聞こえるし、また尊厳死協会がコメントしているのはそこが争点のように思われる。

 しかしそれはオモテの話だ。じっさい、このふたつのことを知っておく必要があると思われる。
1)レスピレーター装着患者によって、病院側の収入はプラスになる
 通常、三ヶ月以上の長期入院患者では、かかった医療費に拘わらず「丸め」、つまり定額支払の適用となることがある。レスピ装着では医療費は入院期間に拘わらず出来高払いになる。つまり、病院にとってみれば「おいしい」患者なのである。かつ、ほとんど健康保険上、支払基金からの支出が査定されることはない。
2)レスピレーター長期装着患者の家族にとっては、心理的負担より経済的負担の方が大きい
 これは1)に書いたことから容易に推測できることだろう。また、医療費以外で、個室料金等、健康保険でまかなわれない部分での支払も増えるし、また入院が長期になると、生命保険の医療特約からの入院給付金も打ち切られてしまう。

 このふたつの事情を考慮した上で、この事件を改めてみてみると、この医師がじつに「良心的」であることが見えてくるのではないだろうか。
 ただ、問題なのは、いくらレスピレーターで「生かされている」状態が、傍目から見て非人道的に見えようが、その家族にとっては「どんなかたちでも生きていて欲しい」と思うケースもあり、人道的かどうかの判断を第三者が行うことが正しいのか、ということだ。
 しかし、医療制度の点から見た場合、このような患者に対する健康保険の適応は限定されるべきだろう。つまり、終末医療は、「家族の希望により」行われるケースがかなり多いのだが、それはある程度(それは政策的判断となるであろう)自費で負担させるのが筋ではないかと考えられる。

2006年04月01日

NEJM

 世界中で二番目に(たしか一番売れているのはBritish Medical Journalだったとおもう)売れているNew England Journal of Medicineが、Podcastをはじめたようだ。こういうブロードバンドの普及に伴うテクノロジーの導入は歓迎されるが、一方、最新刊には、大腸内視鏡写真の動画が掲載されていたのだった。

 その動画には・・・回盲部に蟯虫がひしめいているのが見えるのだった。
 引用できないのが残念だが、こーゆーのを公共の場で流すのは、道徳上もんだいはないのだろうか!?

2006年04月06日

臓器移植法改正案

310.jpg
 奥武蔵の重鎮、武甲山。石灰岩採掘のあとが痛々しい。この武甲山でも、奥多摩の名山天祖山でも、石灰岩採掘のために、酸性の痩せた土壌に自生する植生が打撃を受け、絶滅寸前なのだそう。

 あまり医療の話題を取り上げるのはじつは気が進まないのだが。

 以前より「生前に臓器提供を拒否する意思を明示していないばあい、無条件にドナーとなれる」という案を発表していた上智大の町野教授(じつはこのひとが厚労省の研究班にはいったのも、どうしても日本での臓器移植を進めたい、という各方面からの政治工作があったという話である)による標題法律が国会へ提出されるようだ。
 端的に言って、この法律の廃案を希望したい。理由を挙げるとほんとうに限りなく列記できる。医学的、社会・経済的、倫理的・・・ 筆者が重視したいのは以下の三つだ。
 ひとつは、医療全体に占める移植医療のじっさいのウェイトに比べて、マスコミ・厚労省の取り上げ方が過剰であること。これは、移植医療を推進したい=日本の先端医療のレベルを世界に誇示したい、という「国威発揚」の意図が透けて見える。もっと地味な病気・地味な治療であれば、これほどまでには力を入れないだろうと思われる。たとえば、筆者としては、同じだけのコスト・労力をかけるなら、禁煙推進のほうがはるかにその重要性と効果は高いと考えている。
 二番目は、実際に日本でも諸外国でも起きていることだが、プレ脳死状態の患者の治療がおざなりになることだ。たとえば、日大救急医学の林教授が開発した脳低体温療法で復活できる脳外傷(あるいは梗塞・出血)患者はかなり多いと思われるが、この治療の普及が遅れているのもあきらかに政治的なものだ。
 三番目は、「静かに死ぬ」権利の蹂躙である。「事前に拒否を表明しない限り、勝手に遺体を再利用されてもよい」という考え方は、かの「人は死ねばゴミになる」という元検事総長の発言を思い起こさせる。ゴミになる死体なら「有効利用」しよう、という発想は、生物学的な死が遺族にとって本当の死に転化してゆくプロセスを認めない、ということである。死にゆく人間の尊厳が認められないで、どうして生きている人間に尊厳が認められるのだろう。「脳死」という、医学的にも曖昧(推進派は明瞭だと主張しているが)なポイントを越えるか越えないかによって、180度扱いが変わってしまうのだろうか。

 かつて、戦前の医学部には「マテリアル」ということばがあった。これは「クランケ」(患者)と同義である。つまり、患者とは治療の対象ではなく、医師にとっての研究の「材料」であったのだ。それと同様の現象が現代でも生じているとは言えないだろうか。「生きている死体」である「脳死患者」の臓器の有効利用とは、まさに「マテリアル」への回帰と言えると筆者は考える。

 医療従事者としては少数意見であることを承知の上、あえて臓器移植法改正(改悪)案に対する疑義を表明してみた。
 そう、ひとこと追加しておくと、「アンチ・ドナーカード」の無料配布など、臓器移植法反対を呼びかけているのが、あの大本教であることはなかなか興味深いと言えるだろう。
 読書繋がりでかいておくと、この大本教をモデルにした小説が高橋和巳の「邪宗門」だ。

続きを読む "臓器移植法改正案" »

2006年04月07日

療養病床削減

315.jpg
 m3.comより。
「高齢者の負担増などで医療給付費の抑制を図る医療制度改革関連法案が、6日の衆院本会議で審議入りし、民主党など野党各党は高齢者が長期入院する療養病床を現在の38万床から15万床に削減するとの政府案について「行き場のない高齢者が放り出される」などと一斉に批判した」
 だそうだ。

 まあ、放り出された高齢者は、政府が主張しているように、老健施設が受け皿になるのではなく、急性期病棟を占領することになるのだろう。すると、本来は入院治療が望ましい患者が、欧米のように病院の近くにホテル住まいをして、通院で治療を受けるような事態になりかねない。結局ベッド料金をホテル代金というかたちで患者に負担させるわけだ。これからは外来通院者用のホテル業者が儲かる時代かもしれない。

 医療費を削減するだけならいろいろと小手先の方法はあるけれども、費用を抑えてクオリティを維持するには、結局受益者負担を増やすしかない。問題は、その受益者が自己負担増に見合う医療を受けているかどうかであるが、、、一方で脳死患者の有効な「再利用」を目指しつつ、一方でいかなる状態であっても生命維持を第一の目標とするという「人道的」なスタンスは変更される気配がない。じっさい、長期入院の患者の場合、一番の問題は家族の医療費負担なのだ。個人による医療費負担がたぶん先進国で最も軽い(世界で、と書こうとしたが、産油国の中には医療費は国家が完全に負担してくれる国も存在する)日本においても、健康保険外の部分、例えば個室料金などは大きくのしかかってくる。命の沙汰も金次第とはよくいったものだが、根本的な思想の部分での「大改革」が必要な気がしてならない。核分裂が発見された時点で、その軍事利用が約束されたように、あるテクニックが開発されると、それは万難を排して臨床に導入され、倫理による制約を超えて利用する人間が絶対に現れてくる。それが端的にあらわれているのが生殖医療なのだが、その「後戻りができない」技術の性格じたいを何とかしなくてはならないような気が筆者にはしているのである。

2006年04月23日

民主主義・資本主義の論理と医療

367.jpg
 某所に書いた記事の転載。

言わさず魂を、じゃなくて、内臓を抜かれる、という時代になってしまいそうなのだから。

 先日、NHKで「海外へ臓器を買いに行くひとびと」の特集をやっていた。もともと医療関連の番組が大嫌いな筆者は、面識のあるK先生が登場し、「これは中国でのオペの失敗ですね」と語っているところでスイッチを切ってしまった。
 事例は、肝硬変で肝移植が必要だが、国内で臓器が入手できず、アメリカで受けると3,000万円かかるので、中国で移植術を受けたが、術後の経過がはかばかしくなく、帰国後即入院したというもの。中国だと待たずに1,000万円で手術可能らしい。
 いくら経済発展してきたといってもまだGDPでは発展途上国といわざるを得ない中国に臓器を漁りにゆくのはエコノミック・アニマルの傲慢だと言われてもしょうがあるまい。AA諸国のひとたちが他国へ臓器を買いにいくことなどできないのだから。
 中国では政治犯を含む死刑囚の臓器が再利用されていることも問題だが、番組ではそれがクローズアップされていて、「海外で倫理的に問題がある治療を勝手に受けてきて、その後始末に日本の健康保険が適用されるのか?」という、日本の保険負担者から見た場合一番気になるはずの疑問は提示されなかった。こういうことに保険金が使われるのなら、ただでさえ高額な健康保険料を払うことに抵抗があるかたが増えてもおかしくないだろう。ただでさえ国保は三割程度の未払い者を抱えているのだ。

 さて、NHKがこういう番組を企画するのは、国内での臓器移植を増やそうという狙いがあるからだろう。
 臓器移植を推進しようという勢力は一体どこか? 移植医の団体であり、医療レベルを国外に誇示したい厚労省であり、患者団体だ。患者団体からの要望がつよいことは、一見何の問題もないようにみえる。しかし、本当にそうなのだろうか。筆者には、ここに「民主主義の欠点」が見え隠れしているように思われてならない。
 臓器移植法案の成立後、初めての脳死患者からの移植第一号となった高知赤十字病院のケースでは、症例の選び方に疑問が提示されているが、その声は大きく上がることはない。つまり、脳外科的に救命が可能であったかもしれない、という可能性だ。
 医療者の心理として、「脳死ドナーとなれる可能性がある」ということが脳裏に閃いた瞬間、目の前の患者の救命を100%考える倫理からは一線を置きはじめることは事実ではないか。脳外科の場合、「臓器をよい状態に保つ」ことと「救命」が相反することがおおい。つまり、脳浮腫の予防・治療のためにステロイドや抗浮腫剤を使うことは、内臓の虚血を来たし、臓器の質を下げることがありうる。そこで、実際に「治療を見切る」時期が早くなることも起きうるかもしれない。
 さらに筆者が指摘したいのは、「臓器移植を推進せよ」と叫ぶ団体と、「脳死準備状態の治療の手を抜くな」の声を上げる団体の間の力関係の差である。前者は、自らの命がかかっているだけに、運動に熱心なのは当然であり、役所も取り上げやすいのが人情だろう。しかし後者の多くは宗教団体だ。そして、何よりも決定的なのは、「瀕死の患者」という、臓器移植に対して慎重であって欲しいことを願う当事者そのものは、<<政治活動ができない>>ことだ。また、家族が運動するにしても、そういう状態の患者は回復するか死亡するかの瀬戸際に置かれているわけだから、その状態に長く止まることはありえない。だから、圧力団体として一定の数と力を行使できるようになるまでに団体が成長することがむずかしいのだ。
 筆者がいいたいことは、民主主義という政体の中では、声の大きいほうが主張を通しやすいということで、本来権利をしっかり保護しなければならない人間が、政治活動をできない状況においては、その権利保護がなおざりにされやすいということだ。これはまさに多数決を最終決定とする民主政体の欠点であろう。

 また、臓器移植推進にはとうぜん資本主義の論理が絡んでいる。つまり、移植をビジネスにしたいと考えている層がかなりいるわけだ。「瀕死患者救命」は地味だし、ビジネスになりにくい。成長産業になりそうなほうに力を入れたいというのは、役所としても当然だろう。

 筆者は、医療業界の人間としては少数派の臓器移植反対、あるいは慎重派である。臓器移植にはほかにもさまざまな論点があり、この小論だけではすべてを述べることは到底できない。こんかいは圧力団体という観点から主に述べてみた(あまり他では聞くことのない視点だから)。医療者として、筆者は「到底助かりそうもない患者の救命に全力を注ぐよりは、一臓器を交換すれば長期生存が可能(じっさいはそうでもないのだが)な患者が優先されるのは当然」という、「生命の質」にかんする暗黙の前提が横たわっているように感じられてならない。これは、QOLに対する評価(臓器移植を行った患者のほうが瀕死患者を救命したよりも高いであろう)と同時に、歩留まりの評価(救命可能性はレシピエントの方が瀕死患者よりも高いだろう)も含まれているということである。

 いっそ、アメリカでの議論のように、上記前提を認めてしまった方が、スムーズに議論は進むのでは、という気がしないでもない。いまの脳死に関する諸議論は、そのことを知っていながら口にしない、ことが最大の欺瞞であるように思うのである。

続きを読む "民主主義・資本主義の論理と医療" »

2006年05月06日

死の定義

 これもどこかに書いたことの繰り返しのような気がするのだが・・・なので、かなり簡略化して書いてしまった。筆者の議論を以前にお読みになったことがない新しい読者の方には少々不親切な内容かもしれない。

 スイスの山村氏へのコメント。

>坂口安吾の特攻隊賛美を半藤一利が評して
>日本は、そんな計画者がその後国会議員になった国なのだった...。
 これって誰のことでしょうか。
 源田実にしても辻政信にしても、「計画者」ではありませんが。
#大西瀧治郎も黒島亀人も死んだし。

>医療用医薬品を大衆薬に転用したもの=スイッチ薬
 これは通常OTC(Over The Counter)と呼ぶ方が一般的です。

>過去30年あまりを考えると、原油高で発展したのは、結局人的資源など、工業化の推進能力を持っていた、資源に乏しい日本とNIES各国だった、という話には、ハッとさせられた。
 アマルティア・センの議論と同じだなあ。
 そして今そのセンの議論・・・教育に力を入れれば国は発展する・・・に批判の嵐が渦巻いているというのに、少々古いのではないだろうか、という気も。
 やはり、「アメリカで十年前に流行した議論を日本に輸入すると受ける」のかも。

>外科医で哲学者の関野吉晴氏が、どこで「死」と定義するかという話を書いていた。
 この人の名前は聞いたことがありますが、どういう人物なのかは知りません。
 筆者が思うに、
1)細胞学・組織学的死
2)機能的死
3)社会的死
 と三つに分類するのが分かりやすい。
 立花隆が指摘するように、1)を死の決定とするのは極めて分かりにくい。「脳の細胞が全部死滅した時点」を死と定義するのはあまりにもナンセンス。
 2)が今の「脳死」「心臓死」の決定基準となっている。その時に問題となるのは、"point of no return"、つまりどのポイントを超えたら絶対に蘇生しないか、ということ。「死の三徴候」を現し、かつ低体温などの特殊な状況を除外されたものは、「経験的に」復活がないと信じられている。
 問題は、「脳死」がPONRなのか、ということである。「脳波の消失」という条件は、「完全に脳波が消える」ということではなく、「通常の脳波計による測定では」というところがポイント。機能的診断だからそれでいいのである。「電極を脳室に差し込んでうんぬん」という議論があるが、それで脳波が確認されても、「機能的死」の診断を下すこと自体はかまわないのである。脳波があっても死んでいる、と診断すること自体は、ある機能が失われたことで死と見なすなら、矛盾はしない。
 要は、2)機能死 の判定はむずかしいのである。また、脳が死んでも、心臓が脈打ち、手足が暖かいなら、それを死と認めたくない、という家族の感情は、十分尊重に値するものだ。脳死体を資源とみる見方からはそれは非難されようが、脳死体を「資源」と言い切るその発想に筆者はとても抵抗を感ずる。脳が死んでいても、首から下が機能していれば、それは「機能死」ではない、という議論は十分に正当性があるように思われる。
 なので、筆者が主張しているのは3)の社会的機能喪失により死を判定する、という方法である。つまり、死の三徴候が認められ、家族や関係者が間違いなくその患者が亡くなった、ということを(気持ちの上で完全にではなくとも)受け入れられた状態を「死」と判定するのが、実は医療現場でももっとも行われている判定なのである。つまり、心臓が停止してから、近親者が到着するまで、死亡宣告を保留することは一般的だ。それは医学的に言ったらまちがいなのかもしれない。しかし、病院に到着したら「先ほど亡くなられました」とすべてに告げなくてはいけないような時代の到来を国民が望んでいるとは思えないのだが。

>それは、ふだんぼくらが何となく考えているより、世界的にも多様なものなのだった。
 そですよ。これに関しては、出口顯「臓器は「商品」か」(講談社現代新書)がお勧め。著者は文化人類学者。

>これを考えても、移植を積極的に推進するのは躊躇われるのだけれど...。
 筆者ははっきり臓器移植には反対です。

>「所得と学力の相関を示すレポートは、一方で問題提起となるが、他方で「投資」を煽ることにもなる。」
 これも古い議論だなぁ。。。
 でも、アルチュセールの「再生産論」がようやく邦訳されたばかりだから、仕方がないのか。

2006年05月14日

ネット依存

西方茶話より。

 筆者は自分では「依存」だとは考えていないが、接続時間の長短で言ったらまちがいなく依存なのだろう。筆者がおもう「依存」の定義は、

1)日常生活に支障が出る。コメントがついているかどうか気になって、何度もリロードしてしまう。他の有益な活動をする時間が割かれてしまう。
2)やめようと思っても、不安のためやめられない。

 である。要は、薬物依存の「身体依存」と「精神依存」類似の定義である。

「1)ミクシィなどのSNS何か更新されていないか楽しみで見てしまう。
2)推敲下手。最近は減ったけどUPした後の原稿を見て繰り返しまずい点(誤字脱字、文章の言い回し)を直してしまう。ついつい接続している時間は長くなる。」

 筆者の場合、2)はたいてい一、二回で済む。内容の推敲を投稿後にすることはなく、文章の日本語のチェックのみである。むしろ1)の方なのだが、自分に関心を持ってくれている人がいるのが単純に嬉しい、という稚気なのである。
 それで、ついついコメントを下さる方には入念にお返事をしてしまったりするのだが、それで痛い目に遭ってしまったので、少々考えなくてはいけない、と思っている。

 そう言えば、きょうは家事に追われたこともあるが、まだ本を一冊も読めていない。やはりネット依存なのか・・・鬱だ氏のう・・・

#まあ今日は事件勃発したからその対応に負われたということで言い訳

続きを読む "ネット依存" »

2006年05月16日

加藤眞三先生

428.jpg
 ある方から、(たぶん珍しいとおもわれる)医療界の重鎮でありながら、脳死・臓器移植法に反対されているかたの記事をご紹介いただいた。関係ないが、「しんぞう」と入力して「晋三」が最初に候補に登場するのは、いただけない(笑)。

 さて早速だが本文の批判的検討からはじめたい。
「脳死は死にそうな人であり、ヒトの死でないことは明らかなのだ」
 これは筆者が以前も書いたとおり、不可逆な点(point of no return)、つまり、「この徴候が出たら絶対に復活しません」を超えたら死である、との定義とする立場はあるから(もっとも、今の脳死の定義は、point of no returnを超えたかどうかについて、相当に怪しい)、定義によっては「死」とすることはありうると思われる。だから、「明らか」と言ってしまえるかどうかは問題がないとは言えない。
 ただ、それを「人間の死=ある機能が失われた時点で死とみなす」と法制化することが妥当かどうかという問題とするならば、筆者はこれに反対の立場に立つことはすでに述べた。

「死にそうなヒトと、これから役立ちそうなヒトを他人が天秤にかけて、こちらのほうに臓器を移そうという行為であることを直視しなくてはならない」
 これは臓器移植法の大前提である(笑)。批判することはまっとうな行為なのだが、その批判が<<敵>>の痛いところを突いているかどうか、という政治的な判断としてはまた別か。まっとうな意見がストレートに通らないところにこの問題の根のふかさがある。いや、この問題に限らず、医療制度、いや日本の政治全体に言えることか。

「狂騒原理や市場経済導入にまい進する自民党議員はまだしも、公明党議員が宗教を母体とする立場から、このような思想に同調しないことを念願する」
 公式の声明としては妥当な意見だ。しかし、わずかな瑕疵がある。それは、公式には、公明党は創価学会が母体であることを現在は否定しているからだ。なので、公明党が反論するとすれば、
「わが党は宗教に基づく政党ではありません」
という答えが返ってくるだろう。
 実質的には次のような批判が成り立つ。それは、加藤先生は公明党と創価学会の関係を、宗教団体が先にあって、その教義(思想)に基づいて政党が成立している、という常識的な考えでとらえておられるようだが、筆者のみるところそれは反対であって、公明党(と、学会幹部)の考えが先にあって、その政治的思惑によって学会が集票団体として作用している、と見たほうが実情に合っているだろう。だから、学会の側から党への批判はありえない。党のほうが上位組織だからである。

 と、辛辣なことを書いてしまったが、筆者は全体としての主張にはまったく賛成である。筆者のような世捨て人が迷い言を連ねるよりは、医療界のリーダーにこのような発言をどんどんしていただいた方がはるかに意味がある。陰ながらエールを送らせて頂きたい。

続きを読む "加藤眞三先生" »

2007年01月29日

老後に夫と同居→妻の死亡確率2倍

 朝日新聞より。

 まあ、妥当な結論といえよう。
 コメント多数きぼんぬ。

続きを読む "老後に夫と同居→妻の死亡確率2倍" »

2007年04月02日

パブリック・コメント

 原則としてこのblogには医療関係の記事は書かないようにしたのだが、いちおうこの記事は載せておくことにしよう。

 筆者は署名しました。


□■ 署名のお願い ■□

 厚生労働省が「診療行為に関連した死亡の死因究明等のあり方に関する課題と
検討の方向性」に対して、パブリックコメントを募集しています。

 現場からの医療改革推進協議会(http://expres.umin.jp/mission/genba.html )
は、ご賛同いただける皆様の署名とともに、これに対する意見を提出することを
予定しています。

 この意見にご賛同いただけましたら、署名をお送り下さいますよう、お願い申
し上げます。


■「現場からの医療改革推進協議会」の意見■
http://expres.umin.jp/genba/comment.html


■署名方法■

 下記のいずれかの方法で、4月13日(金)までに、末尾の署名送信票をお送
り下さい。医療関係者以外の方の署名も歓迎です。


●e-mail kami@ims.u-tokyo.ac.jp


●Fax 03-6409-2069


●郵便 〒108-8639 東京都港区白金台4-6-1
東京大学医科学研究所
探索医療ヒューマンネットワークシステム部門 内
現場からの医療改革推進協議会 事務局 宛


 一人でも多くの声を制度設計の場に届けたいと考えています。
 ご協力の程、よろしくお願い致します。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

上 昌広 (かみ まさひろ)、医師
現場からの医療改革推進協議会 事務局長
東京大学医科学研究所
探索医療ヒューマンネットワークシステム部門 助教授
e-mail: kami@ims.u-tokyo.ac.jp
Tel: 03-6409-2068 (直通)、Fax: 03-6409-2069

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

***********************************************************************
署名へのご協力をお願いしています。御協力を賜りますようお願い申し上げます。

「診療行為に関連した死 亡の死因究明等のあり方に関す る課題と検討の方向性」
に関する厚生労働省パブリックコメント
http://expres.umin.jp/genba/comment.html

御賛同いただける方は、「賛同」の旨をお書きになり返信ください。
***********************************************************************
***********************************************************************
署名へのご協力をお願いしています。御協力を賜りますようお願い申し上げます。

「診療行為に関連した死 亡の死因究明等のあり方に関す る課題と検討の方向性」
に関する厚生労働省パブリックコメント
http://expres.umin.jp/genba/comment.html

御賛同いただける方は、「賛同」の旨をお書きになり返信ください。
***********************************************************************

続きを読む "パブリック・コメント" »

2007年05月23日

バカにつけるクスリ

pasa.jpg

 筆者は単なる醜聞の暴露は好まない。しかし、いま巷で議論されている医療過誤・医療ミスについてその論争に参加する前に、こういう事例があることを述べておくのはムダではないだろう。

 以前、カテーテル感染症を起こしている、ある患者に対する、主治医および研修医の、抗生剤の使い方に関してである。
 抗生剤とは、人体に取りつく細菌を殺す物質のことである。よって、抗生剤を使うのは、以下のケースに限られる。すなわち、

・細菌による感染症を起こしている場合
・細菌による感染症を起こしやすい場合において、それを予防する場合(外科手術の前や、抗がん剤による白血球減少など)

 ところが、その常識を無視して、一ヶ月くらい延々と、熱もなければ炎症反応(細菌感染を起こしている際に上昇する検査)もない患者に、意味もなく強力な抗生剤が二つも点滴されているのである。

 さすがに、バカにつけるクスリはない。思うに、これは新研修医制度、すなわち「マッチング」の弊害である。
 優秀な研修医は、どんな病院で研修しても、それなりに育つ。それは、彼らは教えられたことを鵜呑みにすることなく、自分で教科書や文献を読んでたしかめるからである。しかるに、優秀でない研修医は、優秀な指導医の管理下で研修しないとまともに育たない。彼らは自分で勉強しないからである。
 このような状況で、マッチング制度、すなわち、「優秀である順番から研修病院を選択できる」ようなシステムを採用したら、どうなるか。言うまでもない。優秀な研修医はますます優秀になり、無能な研修医はますます駄目になるばかりである。すなわち、研修医間での技量の較差は、ますます広がる。

 日本全国における医療水準の平準化が叫ばれているこんにち、医者の間の技量に大きな差が生まれるような制度を施行してしまって、いいのだろうか。
 むしろ、今のマッチングは、全然逆にすべきなのである。優秀な研修医は場末の三等病院(笑)で研修をさせ、橋にも棒にもかからない(先ほど例を示したような)研修医は、一等の病院で一等の指導医に指導を受けるべきなのである。こんな制度のほうがよほど効率的である。

 格差社会と呼ばれて久しい中、ますます優秀な人間を優遇し、無能なやる気のない人間をますます駄目にするような制度を導入して、どうするのだろうか。

続きを読む "バカにつけるクスリ" »

2007年06月20日

逆ザヤ

_6174130.jpg

 タイトルのことばを辞書で引いてみよう。大辞林第三版では、

「1)売り値が買い値より安いというように,値段の開きが本来あるべき状態と反対になること。
 2)相場で,銘柄を比較したときに当然高いはずのものが安く,安いはずの銘柄が高いこと。
 3)中央銀行の公定歩合が市中銀行の貸出金利を上回ること。また,その差。」

 とある。ここでは、1)の意味である。

 たとえば、生薬のような、品質によって仕入れ価格に開きがある薬剤のようなものでは、その納入価に応じて薬価をつけることが望ましい。ところが、健康保険で生薬を処方する場合(いちおう日本薬局方に収録されている生薬のほとんどは保険での処方が可能なのだ)、保険薬価が決まっている、つまり、どんな品質の生薬を用いても、患者の自己負担プラス健康保険から徴収できる金額が一定しているために、良心的であろうとするほど、医療者側が損をするという事態が発生する。つまり、高価で質の良い生薬は、健康保険では使用できないことになる。

 この事実はそれほど知られているわけではないが、もっと身近にこの逆ザヤの事例があることがわかり、ちょっと愕然としている。それは、検査部門である。
 画像診断では「減価償却」が問題になる。つまり、その機械の耐用年数(性能的に時代遅れになることも含めて)と、その機械を稼働させて上がる収益を勘案して、後者が上回れば、ある機器の導入は促進されることになるのは当然だ。その結果、もっとも収益性のよい医療機器としては、超音波診断機が有名であり、逆にかつて一世を風靡した(つまり、この機械を設置するだけで儲けることができた)が、保険点数の低下のために、今では減価償却不可能な機器としては、MRIが知られている。今はやりのPET (positron emission CT) は、サイクロトロンが必要であるために、導入コストはかなり高価なのだが、保険点数が高いこと、これをがんの検診目的として、自費(十万円程度が多いようだ)で運用することが可能であること、から、徐々に普及しているようである。

 今、医療の現場では、「検査で儲ける」ことが、ひとつのコンセンサスとなっている。別の部門で生じている「持ちだし」(患者負担にできない部分を、損を覚悟で病院が負担すること)をカバーするためには、収益性のよい部門が必要であり、それが検査部門と見なされているのだが、実はこの検査部門にも逆ザヤの部分が存在するのである。
 ひとつは、先に述べた、減価償却できない高価な検査機器であり、もう一つは単なる検体検査(血液検査、尿検査など)である。

 このたび、クォンティフェロンTBという、新しい結核の検査法を、病院に導入できないか、ということについて調べていたのだが、愕然とする事実に遭遇した。それは、この検査で請求が認められている保険点数は470点、つまり、4700円なのだが、これを検査会社に発注した場合、検査会社から病院へ請求される額は、数千円ほどこの料金を上回る、ということなのだ。ひらたくいえば、この検査を一件行う度に、病院に数千円の損が発生することになる。

 この原因は、試薬を製造しているオーストラリアの会社から輸入するコストと、この検査に要する人件費が高いことに起因している。要は、せっかく健康保険で認可されるようになっても、保険点数が検査のコストを反映していないのである。
 筆者としては早急にこの保険点数が実情に合うよう改定されることを希望するが、やはり役人の考えることはバカなのである。そもそも、先ほどのMRIの件もそうだが、構造的に病院に損が発生するようなしくみを作っておくのは犯罪的な行為ではないだろうか。これでは、別の部分で不正に儲けよう(架空請求とか)という病院側の行いを拒めないはずである。

昨日の読了
 松本健一「評伝 斎藤隆夫」岩波現代文庫 B
 バーバラ・タックマン「八月の砲声」筑摩書房 B

 例によって松本の本はあっという間に読める。あの「粛軍演説」で有名な斎藤隆夫の事跡を辿るのに、最も入手性が高い本と思われる。石橋湛山、清沢洌、馬場恒吾などの戦前のリベラリストや、逆に北一輝や大川周明などの右翼に興味のある識者にとっては、一読の価値のある本だと思われる。「竹内好の思想的後継者」を任じている松本の本は、深みに欠けるきらいがなしとは言えないが、筆者の嗜好や関心に一致しているために、個人的には好きでフォローしている。次は、「隠岐島コンミューン伝説」が文庫化されるのを待ちたい。

 「八月の砲声」、ケネディ大統領が、キューバ危機に当たって(だったと思う)閣僚に読ませたという有名な本だ。第一次世界大戦を、マルヌ会戦に至るまで生き生きと描いているという評判である。しかし、筆者には、あまりに小説チック、ジャーナリスティックに過ぎ、あまり感心しなかった。まだ未読だが、リデル・ハートの「第一次世界大戦」のほうがいいんじゃないかな?

2007年07月04日

パラメディカル(1)

_6234165.jpg

 これは本来別の場所に書くべき話題だが、筆者の鬱憤晴らしということで、ここに敢えて載せさせて頂く。

 筆者は医師である。そして、この「パラメディカル」ということばは、本当は好きではない。このことばには、医師のみが本来医療に携わる人間であり、他の医療関係者はそれより一段下(だから、「パラ」)という含みがあるように思われるからだ。しかし、慣用的に、このことばが医師意外の医療スタッフを指す(コメディカルという言葉もほぼ同様に使われる)から、ここではそれに従って記述を進めたい。

 医師の立場からみて、パラメディカルは、四種類に分類される。まず、

A)医師が嫌いではない。内心では嫌っているかもしれないが、仕事上では協調・融和的な姿勢を持っている
B)医師が嫌いで、仕事上でもそれを表面に出す

 という分類であり、次の軸には

X)仕事熱心で、up-to-dateな知識や技術の習得にも積極的である
Y)学校で習った知識しか知らない(それすら知らないこともしばしば)

 という分類をあげたいと思う。つまり、これらの組み合わせで、パラ(コ)メディカルは、四タイプに分類可能である。それぞれについて、簡単に説明を行いたい。

・AXタイプ
 数はすくないが、医師にとって最も頼りになる仕事上のパートナーである。質問をすれば答えてくれるし、あちらから最新情報やより適切な検査/処方などを教えてくれることもある。

・AYタイプ
 たぶんもっとも多いタイプ。医師の指示はこなしてくれるが、それ以上のことは期待できない。ただ、反抗はされないので、仕事のパートナーとしてはまずまず。

・BXタイプ
 極めてまれ。筆者はこのタイプにはほんの数人しか出会ったことがない。仕事熱心なくせに、医師を敵視し、ことある毎にぶつかり、自己の領域については決して譲ろうとせず、陰日向に医師の悪口を言う。このタイプがすくないのは、一般的には、優秀な人間は、チーム医療の重要性を認識していることが多いからだと思われる。

・BYタイプ
 少ないが、AXタイプよりは多いと思われる。知識も実力もないのに、医師を敵視し、自己の領域に侵入されたときには激しく抵抗する。「最終的に決定権を持っているのはわれわれではなく、医者だから」という文句を好むことが多い。

 さて、筆者が本日遭遇した不快な出来事は、このBYタイプに当たると思われる人間との接触を余儀なくされたことである。
 この人物とある程度の時間の会話をしたのは、三回目である。まず、初回におきた出来事を書こう。これは一ヶ月程度前のことだが、筆者はくだんの人物を昼休みにある用件で訪問したのだった。そして、言われたのは

「あと十五分したらまた来てくれ」

 であった。どうして十五分後なのだろう??

 そう、訪ねた時間が一時十五分であり、当院では三十分までがスタッフの昼休みの時間なのだ。
 ちなみに書いておくと、筆者はこの仕事をウン十年続けているが、このようなパラメディカルの対応にあったことは一度もないし、また自分も、食事中を除いては仕事上の理由で訪ねてきた相手に、このような対応をしたことはない。

 で、びっくりしたのだが、どうも他の部署にそれとなく聞いてみると、この部門はなんとなく嫌われているらしい。

 二度目の事件は、新しい伝票を作るに当たって、適切な項目がどれであるかということについて、その部門の責任者と、くだんの人物の意見が違っており、責任者が筆者に助けを求めてきたというものだった。
 実際の事例を書くと部門がわかってしまうが、しょうがないか。今年大流行した麻疹について、抗体を保有しているかどうか調べる検査法は、複数ある。CF法、PA法、HI法、そしてEIA法だ。日本感染症学会の勧告によれば、CF法は選ぶべきではないとされている。PA法は感度に問題があり、64倍くらいの低力価はワクチンの再接種をすべきだとされている。HI法の利点は値段が安いことだ。EIAは最新の検査法だが、検査の価格がやや高い。
 その勧告によれば、「価格は高くとも、もっとも信頼できる検査法、すなわちEIA法を推奨する」ことになっている。よって、責任者(主任)と筆者は、EIA法をデフォルトの検査法にしようかと思ったのだが、これに強く反対したのがくだんの人物であった。
 そこで筆者はくだんの人物に面会をしたのだが、それによると

「この検査を最も提出するのは小児科であり、小児科ではHI法で検査をしているから、そちらを残して欲しい」

 ということであった。

 最終的には、筆者は小児科医ふたりと面談をして、EIA法をデフォルトにすることに成功したのが、主任によれば、実際には内科と小児科で、検査がオーダーされる件数は、さほど変わりがないらしい。

 この事件でかちんときたのが原因か、本日別の事件が勃発した。


 何か書いていてあほらしくなってきたので、気が向けばまた書くことにする。

続きを読む "パラメディカル(1)" »

2007年09月06日

検事の医療研修拡大

 元記事はこちらである。

http://www.mainichi-msn.co.jp/science/medical/news/20070904ddm012040063000c.html

 『医療事故を巡る刑事事件の捜査や公判に役立てようと、検事が大学病院に出向いて医療現場を学ぶ研修制度が本格化している。一昨年から始まった試みだが、今年は研修生を大幅に増員し、7月上旬、全国から検事20人が二つの大学病院での研修に参加した。法務・検察幹部は「医療現場の感覚を取り入れて真相の解明に生かしたい」と期待を寄せる』

のだそうだ。

 筆者がおもうに、これはマスコミで持て囃されるプラスの面だけを持つことを意味しない。

 なぜか日本ではこのような場合、研修施設としてかならず大学病院だけが選ばれる。そして何かに関する経験がすくなければすくないほど、自らの体験したごくわずかの現場をみて、日本の実情がそうであると思いがちなのは、医療に限らず、すべての領域に起こり得る過ちである。
 大学病院における医療は、日本の医療の実勢を反映していない。それは、1)人的資源が豊富である 2)医療を学問とみる立場から、実践的というよりも理論的なアプローチが取られる という二つが前提である上に、最近では 3)DPC(Diagnosis Procedure Combination)を採用しており、出来高払いという旧来の医療費算定システムを採らない というところから、特にDPCを導入していない中小の病院(これが日本のかなりの部分を占めるわけだが)との医療行為において、かなりの差異を生じているからである。

 つまり、大学病院という、きわめて特殊な(水準が高いことをかならずしも意味しない)環境だけをみて、日本の医療行為全体を判断されるのは、おおくの医師や医療機関にとって、はなはだ迷惑なことであるにちがいない。

 ひろくシステム全体の実情を知ってもらうような方法は、ないものであろうか。

2007年10月06日

頭痛

 クリックしてみてください。

 ようやく収まりつつある(一応部屋にいれるようにはなった)のだが、まだ治らない。化学物質過敏症おそるべし。窓を開け放しにして扇風機をつけておまけにキムコを置いており、しかも防塵マスクをつけていても、部屋にいるのが精いっぱいという状態である。

 おまけに吐気と下痢も出ているが、これは化学物質のせいなのか、単に独立した胃腸炎なのか・・・背中の寒気ももう一週間とれない。高熱が出ないところをみると、過敏症の症状の可能性もたかいとおもわれる。

 本屋で注目すべきと思われる本があったので紹介しておこう(買わなかったがいつか買うかもしれない)。
 植草一秀「知られざる真実—勾留地にて— 」イプシロン出版企画
 マーティン・バナール「ブラック・アテナ(1)」新評論

 植草の本はあまり話題にならないなあ・・・佐藤優とはえらい認知度の差があるようだ。後者の「ブラック・アテナ」は、すでに藤原書店から(2)の翻訳が出版されているのに、なぜ(1)が別の出版社から出ているのだろう。たしかに、ウォーラーステインの「近代世界システム」などの例はあるけれども(この場合翻訳者は同一だった)、このような本が別々の出版社から出ることはふつうはありえない。

 要旨は、「ギリシャ人は黒人であり、ギリシャ文明は非西欧的な諸文明の混淆である」というものだったとおもう。

昨日の購入
 酒井直樹「日本/映像/米国—共感の共同体と帝国的国民主義」青土社
 エドワード・サイード/大橋洋一「晩年のスタイル」岩波書店
 クロード・レヴィ=ストロース「食卓作法の起源 [神話論理III] 」みすず書房
 ミヒャエル・エンデ「鏡のなかの鏡—迷宮」岩波現代文庫

昨日の読了
 日高敏隆「動物と人間の世界認識—イリュージョンなしに世界は見えない」 ちくま学芸文庫 C
 皆藤健「『森と湖のまつり』をめぐって—武田泰淳とビッキらアイヌの人たち」五月書房 B

 動物行動学の本として、前者はちょっと期待外れ。もう少し面白いかと思った。筆者はこの手の本は面白さで判断してよいと思っているが(あの「ソロモンの指輪」など全く飽きない本だから)、これなら竹内久美子のほうが楽しめるかも。

 皆藤氏の本、武田泰淳と、「森と湖のまつり」に関心がなければ、手に取る気は起きない本だろう。本書のいわんとするところは、「1958年前後に岩波の『世界』に連載された(「群像」や「文芸春秋」ではないのだ!)『森と湖のまつり』の問題提起は現代でもそのアクチュアリティを失っておらず、まったく問題がないというわけではないけれども(これは武田の他の本に対しても言えることだが、「土人」という差別表現や、古い家父長制の影響を受けているような発言もみられるから)、今でも味読すべき論点をたくさん含んでいる、優れた小説である」ということだろう。

 筆者はこの小説の出版された当時の状況を知らないが、中村光夫、江藤淳、平野謙、奥野健男などの評論家がこぞって価値ゼロとみなしたというのは衝撃的であった。福田恆存はこの作品をきわめて高く評価しているが、筆者は本作は武田泰淳の代表作といってよいとみなしているから(これも異端的な意見のようだが)、本書のように一冊の研究書を生み出したことはとっても自然なように思われる。

 本書じたいの評価は、皆藤氏および筆者のようなスタンスを共有できるかどうか、ひとえにそこにかかっているように思われる。

2007年10月08日

呪われた部屋

 ついに本日、BOSEのAM-5IIIをビッ○カメラが引き取ってくれた。感謝。しかし、もう部屋から撤去して一週間経つのに、未だに部屋にいることができない。防塵マスクをしてもあまり効果はないようだ。それは、粒子状物質(排気ガスに含まれる硫黄酸化物など)では意味があるが、ホルムアルデヒドのようなガス状物質では効果がないからだ。

 ずっと窓は開け放しにしているし、旋風機もつけて換気をよくしているのだが、新たにガスを発生しているビニル製品があるせいなのか、部屋に数分いると(ここにはPCをはじめいろんなものが置いてあるのだ)吐き気と咽頭痛がして長く留まることができない。しかしほかの部屋へ移動すると症状は収まる(それ以上ひどくならないという意味で、すぐに治るわけではない)ので、シックハウス症候群よりはまだましということか。

 換気に勝る方法はないはずなのだが、空気清浄機の導入も考えている。しかし、「空気清浄機」には落とし穴がある。それ自体がプラスティックを使っている場合にはVOC(揮発性有機化合物)を発生する元となるし、空気清浄機とはもともと花粉や微細なダストなどを除去するもので、ホルムアルデヒドなどのガス状物質のためにつくられたものではないのだ。それらを除去するためには、基本的に活性炭などによる吸着が必要なので、空気清浄機というよりは脱臭機に近い機能が必要となるのである。

 以下のような機械がよいとされているが、いずれも高価である。
http://www.e-arcadia.jp/sick-house/sick-dustfree.html
http://www.with-lemon.com/a_ether/index.html
http://www.zenken-net.co.jp/products/zf-2000i/index.html

 有酸素運動をしてサウナに入るといいと書いてあるので、しばらくできる限り連日やることにする。
 それにしても、むかむかして気分が悪いよ・・・

昨日の読了
 大庭みな子「三匹の蟹」講談社文芸文庫 ?

 中期作品から先に読み始めたせいもあるのか、これらの「戦後文学に新しい局面を開いた」と評価を受けたこれらの作品に、それほど感銘は受けなかった。

 また気分のよい時に読めばちがうのかもしれない。

2007年10月10日

対策

 体調のわるさが続いている。

 部屋の原因物質の濃度はだんだん下がってきていることは頭痛の軽快からもわかるのだが、今は腰痛や倦怠感といった自律神経症状のほうが全面に出てきている。筆者は以前にむちうちを経験しているが、ちょうどその頃の症状にちかい。ということは、やはりいろいろ指摘されているように、自律神経失調がこの化学物質過敏症の本態なのであろう。

 原因物質の除去はすなわち換気と空気清浄機(より正確には脱臭機)の使用だが、どうやら脱臭機でもこの製品はある程度有効らしい。つまり、捕集して無毒化するというメカニズムでホルムアルデヒドの濃度を下げるようだ。筆者の症状がホルムアルデヒド過敏なのかはまだはっきりとはしないのだが。

 いちばん単純な対策はマスク装用であろう。中でも活性炭を使用した防毒仕様のものがよいようだ。しかし、マスク自身が刺激になり悪化させる場合もあるそうだから、注意が必要だ。とりあえず、ここに過敏症仕様のマスクを数種類発注することにした。

 対策だが、おおむね温熱と運動療法は肯定されており、これはdetoxicationというよりも自律神経の賦活法であるように筆者には思われる。だから、同様に自律神経障害をもたらす電磁波過敏症でも有効なはずである。

 ちょっと興味を持っているのが岩盤浴である。サウナはもちろんすでに有効性が指摘されているのだが、少々高価なのはさておき、岩盤浴のほうが皮脂腺を開く効果が強いそうだから、detoxicationの意味では期待できそうだ。もっとも、ホルムアルデヒドが原因であれば、これは簡単に体内で解毒されるはずなので、この方法が有用とは思われない。

 とりあえず、今日は寝よう。。。。。

2007年10月11日

植物過敏

 古本の処分を行ったのが10月9日、一昨日である。このときに一時的に古書と段ボールに囲まれたのだが、特に気分不快は感じなかった。同日、活性炭入りのマスクを買ってきたのだが、ウレタンに不快感を感じたため、別のマスクに活性炭を移して、マスクを装用して就寝した。その晩はほとんど眠れず、マスクが合わないようだと気づいたため、そのマスクは外したのだが、昨日10日、職場でもふだん装用していたマスクをかけると気分がわるくなるのに気づき、それもやめることにした。

 昨日からなんだか紙の臭いが鼻についておかしいと思っていたのだが、本日11日、午前中仕事をしているときに、カルテをめくると頭痛と気分不快がすることに気づいた。どうやら、紙に対する反応が出ているらしい。

 インクに対する反応も知られているが、紙じたいに対しても感作されるひとはいるようである。でも、これでは仕事ができないよ・・・
 紙なら全部だめなわけではなく、今読んでいる岩波の新刊は全然平気である。ということは、おそらく質の良い紙やインクのためではなく、再生紙に対する反応が出ている可能性がつよい。マスクがだめなのは、こういった衛生材料には消毒薬などが使用されていることが多いからだろう。

 幸か不幸か、職場にリハビリテーションで使用する低温サウナがあるので、昨日から借りて使用している。そして有効だといわれる運動療法を自宅近くの、区が運営しているジムへ行って行い、帰りにそこのジム内にあるサウナ(残念ながらこれはミストであり、かなり高温になるために長時間の入浴はできない)に入ることにした。

 サウナが終わり、行きに着ていった(つまり本日朝から着ている)木綿の長袖シャツと同じく木綿の下着をもう一度着たときに、綿の臭いがした。同時に、ノドに痛みを感じた。

 どうやら、紙と同じく木綿にも感作されてしまったようだ。


 もうこうなったら自分のからだを客体と見なして第三者のように観察して楽しんでゆくしかないが、この調子だとほんとうに病欠になるどころか、仕事を辞めて転地療養せざるを得なくなるかもしれない。
 まあ、それも運命だと思って諦めるしかないが。

 もっといろいろ書きたいこともあるがきっと明日以降にもっと書くだろう。ちなみに、これを書いているのは寝室で、今の自宅に筆者が居住できる空間はここしかない(ここでも軽い咽頭痛は感ずるが、リビングや書斎の比ではない)。わずか数ppm(あるいはもっと低濃度)の臭気に反応するのだから、今や筆者の嗅覚はまさに犬なみである。

2007年10月12日

主に化学物質過敏症について

 と、タイトル変更したほうがいいかな。

 職業的な立場からこの病気のメカニズムと治療についてかんたんに考察してみよう。

 薬物中毒と過敏症はあきらかに異なるものとされており、大きなちがいは、中毒のばあい単一の物質が原因である、ある程度大量に(中毒量)摂取しないと障害が出ない、中和あるいは排出で改善する、再摂取しない限り再発しない(パラコートのように、徐々に障害が進んでゆくものもあるが)などの特徴がある。
 しかるに、過敏症では、いったん感作されるとごく微量の暴露でも症状が出る、複数の物質に過敏症状が出る、過敏状態は長期間持続する、など、根本的に異なっている。

 よく、過敏症は「バケツ仮説」、すなわち、人体をひとつのバケツととらえ、一度化学物質がバケツを溢れると、ちょっとの量でもバケツから溢れ出て症状を起こす、と説明されている。
 しかし、筆者にはこの説明は納得しがたい。なぜならば、こちらのページでも触れられているように(このリンク先の医学的な部分の説明は、筆者が読んでもおおむね妥当であると思われる)、化学物質過敏症のもっともポピュラーな原因物質であるホルムアルデヒドは、「水溶性で体内に蓄積しない」ことが知られている。つまり、「溢れ出る」という説明には無理がある。

 むしろ、さまざまな仮説の中では、「自律神経攪乱説」が妥当であるように思われる。筆者はむち打ち症の経験者だが、その症状とほぼオーバーラップしているからだ。むち打ちでは頚椎の強打が頚髄の交感神経節や迷走神経に影響を与えているように、化学物質の過敏によって自律神経の機能障害が生じている(そのために過敏が生じ、過敏のために自律神経障害が悪化する)ととらえるほうが、筆者には納得できる。

 もしそうであれば、治療は「化学物質の暴露を避ける」ことが基本なのは間違いないが、「体内に蓄積された化学物質を排除する」ことは治療にはなりえないのではないだろうか。特に温熱(サウナや入浴)の効果はつとに指摘されているが、これは"detoxication"を目的としたものではなく、自律神経機能の回復を目的としたと考えるとわかりやすい。発汗によって化学物質が排除できるとは(先のリンクにも記載があるが)医学的常識から言って、到底承服しがたい。

 運動療法が有効であることから、ある病気との相同性が問題になるけれども、それは次回また考察してみる。

最近の読了
 大庭みな子「海にゆらぐ糸・石を積む」講談社文芸文庫 B

 前者はアラスカ在住時の人間関係をめぐる連作小説。後者は、「地蔵和讃」をモチーフにしている。
 これらの小説を、じっさいに出会ったひとびとを題材に取っているからといって、私小説というのはむりがあろう。葛西善蔵や嘉村礒多は戦前絶賛を博したが(戦後の文芸評論家から一斉に私小説を排斥する風潮がつくられ、それ以降省みられなくなっているのはこれも一種の流行に過ぎないであろう)、彼らの「真実・良心追究」という(何をもって「良心」というかは難しい問題であるが)路線ではないことはたしかである。

 彼女の小説には「アメリカ臭」があるとも言われるが、それはなかば当たっており、なかばは間違っていると思われる。舞台をアメリカにおいているから、登場人物にアメリカ人がいて、彼らとの交歓を描いているからアメリカ臭がするのではない。「もっとも日本的な作家」ともいわれるが、筆者には彼女の感性や発想法じたいにアメリカの匂いがするように思われる。おそらくその異質感が、「日本の小説界に衝撃を与えた」と言われたのだろうし、今の筆者の感覚からするとどうしても違和感を感じざるを得ない。アメリカ文学の研究から出発し、じっさいにアメリカ文学の影響を受けた作品を書いている小島信夫のほうが、筆者には日本人的な感性で書かれているように感じられる。

 まあそれらは感じ方であり(筆者は文芸評論家ではないから)、自分の感覚との「ずれ」をそのように表現しているにすぎないのだが。

2007年10月13日

化学物質過敏症考

 紙に対する過敏のため本も読めず、PCを触るくらいしかすることがない。これで電磁波過敏症を併発したら終わりだな・・・

 化学物質過敏症 (CS) では自律神経障害が主体であるということから、まっさきに思いつくのが、慢性疲労症候群 (chronic fatigue syndrome, CFS) と線維筋痛症 (fibromyalgia, FM) との異同である。
 慢性疲労症候群の症状とオーバーラップするのは、

・咽頭痛
・疲労感
・頭痛、めまい

 と言ったところだろう。ただ、CFSの典型的な症状としては、「朝起きられないくらいのひどい疲労感」というのがあり、そこまでのひどい易疲労感は、CSでは重症例に限られるであろう。

 それよりも、筆者にとって興味深いのは、FMとの異同である。FMとCSとの共通点は以下のような部分だ。

・性差がある
・物理療法が有効

 これはかなりのヒントになるような気がする。まず、FMは圧倒的に女性の病気と言ってよい。CSでは性差はあきらかにはされていないようだが、どうやら女性がおおいようであり、男性は少ないし、罹っても女性に比べて軽症な印象を受ける。筆者も、自覚的には非常に困っているが、まだ何とか仕事ができているし(紙に反応するので、いつまで可能なんだかわからないが)、少なくとも運動も温熱療法もできている。そのくらいの体力は残っているらしいから、おそらく軽症例なのであろう(軽症で、発症直後から紙に対する過敏症・・・これは、単一物質にではなく、多数の化学物質に対する過敏性を獲得しているということだ・・・を生ずることが、果たして軽症なのかどうかはわからないが)。

 これは、性ホルモンがこれらの疾患に関連しているということであろう。ということは、

・これらの疾患は閉経すると軽快するのか
・ホルモン療法は有効か

 という疑問を産むことになる。

 また、FMでは中枢神経の疼痛感受性が亢進しており、その過敏性が運動療法によって解除されることが知られている。FMの患者さんに対しての生活指導は、「どんなに辛くてもからだを動かすようにしてください」ということに尽きる。じじつ、これによりかなりの患者さんが症状の軽快をみる。そして、CSの患者さんに対しても、同様の指導が行われるようである(しかし、FMに対してのように、劇的な効果はないらしい)。とすると、FMに対しての特効薬であるamytriptyline (トリプタノール)がCSに有効なのではないか、という疑問が生じてくる。
 筆者もCSに罹患してまもなく不眠症を生じており、睡眠薬を服用しないで就寝することができずにいる。ということはトリプタノールが有効である可能性もあると思うのだが、問題なのはこのような三環系抗うつ剤は肝機能障害を来したり、それ自体が過敏症の原因になるポテンシャルを持っている、ということであろう。薬剤過敏症に対して三環系を使用するのは医師としてはかなり勇気の要る行為なのだ。

 まあ、自分のからだなのだから、人柱になってみてもいいのだが。

昨日の読了
 酒井直樹「日本/映像/米国――共感の共同体と帝国的国民主義」青土社 B

 前半はスラヴォイ・ジジェクや内田樹のような映画評論なのだが、取りあげられている映画のひとつが、こう言ったケースで登場する「ディア・ハンター」だったり「ゆきゆきて神軍」だったりするのはちょっと失笑してしまう。筆者は映画をほとんどみないクチだが、それでもこのふたつの映画は観たことがある(しかし、それは筆者が一緒にこの映画を観た相手が映画おたくであったからだろう。読者のなかに、「神軍」をご存じのかたはどのくらいおられるだろうか?)。
 「神軍」はともかくとして、他の映画のなかには、コロニアルな支配を失い、自らの力が失われたことを否認したいという「帝国」(ここでの「帝国」は文字通りのアメリカ、イギリス、日本といった国家のことである)の願望が投影されているという。
 そこで、そのような「支配する男性=支配される女性」という枠組みから外れた「エム・バタフライ」が称揚されるのだが、この作品については別の本の中でみたことがある。「進歩的知識人」の眼は同じ方向へ向いているようだ。

 そして後半では、日本軍が従軍慰安婦を用いた事実を隠ぺいしたい保守派の「恥知らずな」心理がさまざなな角度から分析され、最後に国民国家の一枚岩的性質を打ち破るために「日本人を割る」ことが提案され、締めくくられる。

 例によって正確な要約ではないが、著者が述べているように「どうしてファシズムはそれほど魅惑的なのか」について過去のサヨクの論者が無関心であったことはその通りだと思う。しかし、その著者が見落としていることがふたつある。ひとつは、(これは当然著者が予期している疑問であろうが)「日本人を割る」、すなわち、日本人じしんによる戦争犯罪人の処罰を行うことで、責任の所在をはっきりさせることは、「日本人である」ことによる道義的責任を隠ぺいすることにならないか、ということだ。これは著者の思考の範囲内であろうから、「日本人として」集団的に責任を取ると言うあり方が、日本という国民国家を強化してしまうというパラドクスを解決するために、そのような「割る」という選択肢を呈示していることは理解できるのだが、筆者にはそのパラドクスの解決に著者が成功しているとは思われない。

 そして、第二の疑問のほうがより大切なのだが、著者がいうような「超国家的帝国(ネグリ/ハートのいう「帝国」だ)」が、従来の国民国家と連携しつつ世界中を覆ってゆく、そして日本の保守政治家(安倍のようなタカ派よりも小泉のような新自由主義の政治家を意味するであろう)が、親米という枠組を堅持しつつ、実はアメリカによる日本の属国化を推し進めているという認識は、著者のような論者(ネグリ/ハートをはじめ、金子勝や藤原帰一、そして植草?)が共通して持っていると思われるのだが、その理由について真剣に考察されることがないように思われる。小泉、安倍といったこれらの新自由主義論者、あるいはタカ派論者は、本当に自分たちのイデオロギー性のためだけに、あるいは個人的な利益のためだけに、そのような政策を推し進めているのだろうか?

 筆者には、ものごとはそんなに単純なものではないように思われる。安倍はともかく、小泉は「国士」であって、真剣に日本の国のゆくすえを考えていたことは事実であるように思われるからだ。
 だから、筆者には、「スーパー帝国」を推進し、あるいはそれに惹きつけられてゆくひとびとの心理や動機を解明することが絶対に必要であると思われる。「日本の完全属国化」が、日本人そして世界中の利益になると、彼らは心から信じて行動していると考える方が、自然だからである。

続きを読む "化学物質過敏症考" »

2007年10月14日

patagonia

 パタゴニアといえば、山登りをするひとにとっては周知のブランドである。そう、その値段のたかさによって。

 パタゴニアはアウドドア界のエルメスである(笑)。なので、登山用品といえばほとんどモンベルのそれしか購入経験のない筆者にとっては、永遠に縁がないブランドだと思っていた。が、本日から筆者はパタゴニアの熱烈な(?)ユーザになったのである。

 例によって朝から区が運営するフィットネスに行き、自転車を漕ぐ。ここは区営だから器械の種類も数も限られていて、当然プールなどはないのだが、ミストサウナがある。
 そのミストサウナに入って、フェイスタオルで顔を拭いているときに、あの「紙臭」が襲ってきて、たちまち頭痛に見舞われることになった。
 そしてさらに更衣室での着替え(木綿の下着とシャツであった)の時も同様の頭痛を感じた。化学物質過敏症では、着用できる服や選択方法にも制限を受けるということなのだが、まさしく筆者にも衣類過敏症が出現してしまったようである。

 衣類はクリティカルなものだから(なしで済ますわけにはいかないから)速やかに対応しなければならない。緊急に必要なものはタオル、シャツ(アウターとインナー)である。さて、どうすればいいのか。

 衣類、たとえば木綿製品は、さまざまな加工の段階を経て作られている。木綿を栽培する段階から化学肥料や農薬を使うことのほうがふつうであり、収穫された綿花を脱脂し、線維に仕立て、それを縫製するときにも化学薬品で処理をするほうがこれもふつうだ。
 世にいわゆるオーガニック・コットンと称するものがあるが、これらは単に無農薬・無化学肥料で栽培された綿花を使っているだけではなく、製品に仕上がるまでのさまざまな段階での化学薬品を極力使用しない、という方針で作られているものが多い。たとえばここをみてほしい。

 では、どこでオーガニックコットン製品を手に入れることができるか。ネット販売ではあまた発見することができるのだが、なかなか一般の小売店でどこへ行けばいいのかわからない。そこで調べているうちに行き当たったのがパタゴニアである。もともと、パタゴニアは日本におけるオーガニックコットンの元祖であり(無漂白など徹底しているわけではないが)、扱っているすべての綿製品はオーガニックコットンを使用しているのである。

 さて、パタゴニアへ行ってシャツを買ってこよう。

 とりあえず緊急避難的に表参道の無印良品でオーガニックコットンのシャツを一枚購入し、表参道ヒルズにあるMARKS & WEBでフェイスタオルを二枚、そして渋谷のパタゴニア直営店で長袖シャツを一枚、Tシャツを一枚購入した。

 これからネットショップでさらにいくつか追加することにしよう。あらためて、世の中には有害な化学物質が満ちあふれていることに気付く。東京だと清浄な空気を吸うこともむずかしいのだ。外にはクルマの排気ガスや喫煙者がまき散らす毒ガスが満ちあふれているから(さいきん路上喫煙者を見ると射殺したくなるが、そういう感情を持っているのは筆者ひとりではあるまい。「喫煙者を射殺」ではなく、「路上喫煙者を射殺」なので誤解のないように)。

2007年10月16日

浄水器その他

 本が読めないのでネットくらいしかすることがない。

 本日は岩盤浴なるものにはじめて行ってみた。サウナとのちがいは、開くのが汗腺ではなく、皮脂腺なので、サラサラな汗が出て美容にもよい、などと聞いていたが、筆者の場合は大違い。病院の低温サウナ(リハビリテーション用)は60℃なのだが、最初の15分はまったく汗が出ず(これも異常)、それを過ぎるとどっと吹き出してきて、だいたい30分終了時には体重で300-500g減ることになる。

 では岩盤浴ではどうか。開かないという汗腺が一気に開いて、大量の汗が出てきた。やはり筆者の自律神経はちょっといかれているようだ。化学物質過敏症では汗が出にくい(これはたとえばShy-Drager症候群のように、自律神経が障害される病気ではあることである)と言われているようだが、筆者のばあいはいかれているとはいえ、まだ発汗じたいはかなりあるようなので、そういう意味でも軽症なのかもしれない。

 頭痛、倦怠感、咽頭痛は変わらないが、匂いに対するあの異様な感受性の亢進は収まってきたようだ。

 本日浄水器が届く。購入する方の参考にもなるかもしれないので、ちょっとまとめておこう。まず、浄水器にはろ過式のものが多い。フィルターにはポリエチレンで作った糸膜(これは人工透析などで使われるものだな)や活性炭が使用される。しかし、ろ過では重金属などを完全に除去することはできない。そのためには逆浸透膜方式の浄水器が必要だが、これは業務用の物が多く、十万以上して高価であること、他のイオンも抜けてしまうため味に難点があること、より、検討対象外とした。

 浄水器はたくさんの会社が群がる商品分野である。それは、収益性がたかいということだろう。つまり、製造にそれほど技術的な難易度が伴わず、一回買わせたらコンスタントに儲かるということである。言うまでもなくカートリッジの交換のためである。
 それならろ過膜の交換頻度が少ない製品が良心的な製品と言えるであろう。調べた範囲では、定評あるアメリカ・ハーレー社のハーレーIIがそれに相当する。今回はこれを選択した。活性炭フィルタの交換は何と七年に一回、という優れものである。難点は、週に一回バックウォッシュをしなくてはならないことだが・・・

 さらに、化学物質過敏症では、風呂の塩素に反応する患者さんもおおいということで、風呂用の浄水器の使用も推奨されている。これも、適当な製品がないのだ。なぜならば、キッチンよりも風呂のほうが水の処理量が大量なために、カートリッジの交換頻度が短いからである(二ヶ月に一度交換などというものすらある)。
 こちらのほうは、少々価格は張るが(それでもハーレーIIの半分だ)、ゼンケンという会社(これは最近購入したばかりの空気清浄機の会社だ)のアクアセンチュリー・レインボーという機種にした。この「棡原のミネラル石」などというものは入れなくてもいいから、活性炭の量を増やしてくれたほうがいいと思うのだが。

 次回はマスクとお茶について触れてみよう。

2007年10月17日

民間療法について

 昨日の岩盤浴が有効なのか、きょうはかなり症状が楽である。紙まわりの空気を吸い込んだときの喘息様の咳や咽の痛みは変わらないものの、頭痛やだるさ、吐気のような自律神経症状はほとんど出ていない。

 しかし、岩盤浴一回3000円也はさすがにsustainableではない。EMX 500ml/5000円がだめなのと理由はおなじである。調べ始めて容易に気付くことは、このような治療が確立してない病気の場合には、口コミで「○○が効いたよ!」という情報が出回ることは患者の利益にもなるが、かならずそれを食い物にして儲けを企む人間が出現するということである。そして、消費者=患者側も、「高価であれば効くだろう」と考えて、そのような効果の確立していない、高価な治療への出費を惜しまないということがありうる。そこで、そういった場合には、だます側とだまされる側の共犯関係が成立し、本来はだまされているのにもかかわらず、だます側に感謝するというような逆転現象が生ずることになる。また、お互いにとって悲劇なのは、だましている側も、その意識がなく、本気で患者側のためになる、という信念のもとに、詐欺行為を行ってしまうということである。しかし、それはほかのいかなるサービスの場合にも生ずる一般的な悲劇であろう。

 筆者の、そのような場合における判断の基準は、

A)安価であること
B)昔から存在していること
C)合理的推論から有効性が推定できること

 の三つである。

 A)の基準は、大ざっぱに言って、一ヶ月で一万円以上の出費を必要とするような治療はいんちきである、ということになる。いや、一万円では高すぎるか。たとえば、漢方薬を漢薬局で自費購入した場合の薬代が、だいたい二週間で5000円だから、ここまではぎりぎり許されるということになる。週一回の岩盤浴が有効であっても、月に12,000円かかるとしたら、筆者の基準では、とても採れない。逆に、一台十万円の浄水器(ハーレーII)であっても、七年間ランニングコストがかからない(若干の水道代と電気代のみ)であれば、一年間の投資は一万円を切るから、十分に合理的だ。

 B)の基準は、「新しく開発された」と称する治療手段を選択しないことである。サウナや温泉のような物理療法は長年の伝統がある。実験的な治療の被験者になるよりは、伝統的な治療の恩恵を浴するほうを選択するべきだ。

 C)は、たとえば「デトックス」と総称される治療に関して当てはまることである。「体内から毒を抜く」ことは、感覚的にはわかりやすいが、これはとても大変なことだ。医療の領域で使用される方法としては、血液透析、陽イオン交換樹脂内服、キレート剤内服/注射などがあるが、どれも大変な方法だ。巷にある「宿便取り」「ハーブティー」「アロママッサージ」などの方法で体内に蓄積した毒物が排出できるようには、筆者には思われない。

 以上の基準に満たして、合格する治療法は次のようなものである。「転地」という、有害物質からの隔離の究極の方法があるが、ここでは治療法のなかには入れないこととする。

・調理用浄水器、浴室用浄水器
・シャンプーや合成洗剤の中止、石鹸の使用
・歯磨き粉の変更
・空気清浄機
・サウナ(岩盤浴は不可)
・エクササイズ
・マスク装用
・ハーブティー

 最後にハーブティーを入れたのは、有効性はともかく、この手の治療法としては、価格が比較的安価であるからである。ティーパック20袋で1000円前後というのが相場らしいが、これならフォートナム&メイソンなどの紅茶とそう変わらない。有機栽培の緑茶の中にはもっと高価なものも、いくらでもある。

 お茶はむかしから殺菌や鎮痛などの効能が知られているが、それらの多くは含有されるカテキンによるものだ。ここでは、デトックスの効果を期待するというよりは、気分転換や、サウナ・運動によって失われた水分の効率的な補給という意味から、お茶を多く飲用することを推奨することにしよう。成分による有効性は二の次である。

2007年10月21日

化学物質過敏症revisited

 現在、化学物質を吸入したときの、反応性の自律神経症状についてはほぼ八割方改善してきている。衣類については洗濯石鹸に変更することで、衣服、特に木綿の肌着、シャツ、そしてタオルを吸ったときの咽がひりひりする反応は回避できている。残る問題は、書類や書籍が山積みになっている部屋(それはとりもなおさず職場環境である)にいると、喘息のような空咳が出てきて、呼吸が苦しくなってしまうという反応である。それも、前のように、咽がひりついて頭が痛くなってくるという反応に比べればずっと楽なのであるが(自律神経症状よりも咳のほうが、自覚的にはずっと耐えやすいものである)、仕事をする上でこのままでは困ってしまう。

 今までの治療を通じて、おそらく最も効果的であったものは、まちがいなく原因物質の除去である。筆者の場合、スピーカーの臭気が部屋から消失したのは、スピーカーを撤去してから約十日くらいかかっている。その間に紙や衣類(合成洗剤)といった新しい物質に過敏症を生じているわけだが、紙はともかく衣類に関してはスピーディーな対策が可能であった。

 次に自覚的に有効であったのは、運動療法であった。自律神経症状が出ているときは、吐気、頭痛、腰痛、だるさなどで、自覚的にはとても動ける状態ではないのだが、たとえば線維筋痛症 (fibromyalgia) では、どんなに痛くとも運動することが、痛みの改善につながってくることが知られている。

 化学物質過敏症においては、次の二つの側面があると考えられる。

A)単一、あるいは複数の化学物質に対する過敏性
B)その結果出現する自律神経症状

 A)に対する治療として、原因物質の回避および有害物質の体外排泄 (detox) があるわけだが、筆者は後者に対してはちょっと懐疑的である。
 むしろ、B)の自律神経障害に対する治療としての、運動療法と温熱療法(特にサウナや岩盤浴)は、A)とは独立した効果があるように思われる。つまり、現時点での筆者の状態は、過敏症自体は改善しているようには思われないが、そこから引き起こされる自律神経症状はかなり改善してきているからだ。だから、化学物質過敏の直接の症状、たとえば咽頭痛などについては、これもほとんど変わっていない。

 とりあえず、このまま運動療法および温熱療法を続けるしかないであろう。食事についてはアルコールをなるべく避け、ハーブティーなどの温かい飲料を可能な限り摂取するようにしよう。

 なお、環境浄化法としての空気清浄機の効果はあまり感じられなかったが(少なくとも筆者に対しては、紙から発生する有害物質の、清浄機による除去は、ほとんど感じられなかった)、浄水器に関しては、化学物質過敏症に対する効果はさておき、米やお茶の味の改善にかなりの効果があるもようである。少なくとも東京においては、残留塩素やトリハロメタン、ダイオキシンなどの問題は、避けては通れないようである。

2007年10月22日

マスク

 可能な限り運動療法と同時に温熱療法も行いたいと考えている。昨日は日曜日だったので、運動も兼ねて温泉に浸かりにゆくことにした。

 さいきんはハイキング後の温泉というのがひとつのはやりになっていて(その走りとなったのが道志温泉ということなのだが)、選択肢は豊富にある。地理的に東京から近いのは、丹沢(七沢温泉、鶴巻温泉、中川温泉)が有名であろうが、池袋からアプローチが近い埼玉県内、特に西武池袋線/飯能線の沿線には、手ごろな温泉(正確には鉱泉)がいくつかある。

 昨日は、その中でも名栗村営(今は合併されて飯能市になっているようである)の「さわらびの湯」というのに行ってきた。ここへは今年の春に一度別ルートで行ったことがある(奥多摩から棒の折経由で)。こんかいは飯能から名郷行きのバスに乗って、蕨山を経て直接さわらびの湯へ降りるコースとした。

 蕨山へ登るコースは距離はみじかいけれども部分的には急登があって、これが三時間、四時間と続いたら死んでしまうところであった。湯のほうは、鉱泉には当たり外れが多いところ、ここは湯の量も多く、建物も清潔感があって、リピーターになってもおかしくないような場所である。近隣の農家のおばさんが手作りこんにゃくを売りに来ていたので、それを購入して帰った。

 と、小学生の遠足のような文章であるが。


 さて、マスクについて考えてみよう。市販のマスクは、たいていガーゼか不織布を使用している。そのなかにはフィルターまたは活性炭が入っているものが多い。
 そもそも、医療において、マスクというものは、よく誤解されているところであるが、

・病人が病原体をまき散らさないように装用する

 ものであって、

・健常人が感染予防のためにかける

 ものではない。よく、ナースや医師がマスクをかけているのをみかけることがあると思うが、あれも自分のプロテクトではなくて、医療者側の咳やくしゃみによって、患者が汚染させることを防ぐためのものである。医療用のマスクとしては、N95という特別なマスクがあるのだが、これをしているととても息苦しくなる。たとえば、結核やSARS患者と接するときにかけるものである。

 ということは、ほんらい花粉症や風邪予防と称するものは、前者はともかく後者は邪道なものである。しかし、空気清浄機の進歩を見てもわかるとおり、花粉くらいの粒子径であれば、高性能でなくても、不織布程度のものであれば防護効果はあるようである。ウイルスの大きさのものが空気中を舞っている場合には、無菌室用に使われる(さいきんではダイソンをはじめ、国内外の掃除機でも使われているようだ)HEPAフィルターと言えども、捕捉することはできない。しかし、多くの場合、風邪やインフルエンザなどのウイルスは、鼻水などがくしゃみや咳によって霧のように散布されるときに、それらに乗ってやってくるので、マスクによる防護がまったくナンセンスというわけでもない。

 市販のマスクはガーゼあるいは不織布に、花粉あるいはウイルス用のフィルターを入れているものが多い。排気ガスやホルムアルデヒドなどのガス状物質を吸着する目的としては、活性炭によるフィルターが使われる。何度か書いてきたように、ガス状物質に対しては、粒子にある一定の大きさがあることを前提として使用されるフィルターは、全く無効である。空気清浄機の多くがシックハウス症候群に有効ではないのは、それが理由である。ということは、フィルターのみのマスクも有効ではないことになる。しかし、じっさいには、マスクは呼気によって常に加湿されており、加湿された布はある程度の吸着能力を発揮するために、まったく無効というものでもないようだ。

 先日紹介したマスクの専門店で売っているマスクの多くが、化学物質過敏症の患者さんでは過敏反応のため使えないようだ。筆者も、比較的使用実績のあるクラレのキーメイトマスクであっても、長時間装着しているとだんだん息苦しくなるという経験をしている。

 それは、なぜか。マスクの構成は、支持部分とフィルタ部分に分けられる。フィルタ部分(たとえば活性炭)に過敏症があれば、ほとんどすべてのマスクは使用不能だし、逆にフィルタに対して耐性があれば、マスクの母体であるガーゼあるいは不織布(ジョンソン&ジョンソンの立体マスクなどは本体が不織布で、これにフィルタ効果を合わせ持たせている)を変更すれば、装用可能なはずである。

 100%オーガニックコットンでつくられたマスクが市販されている。筆者はこれを購入したが、木綿そのものに対する過敏症が存在しなければ、マスクとしてはこれがもっとも安心してかけられる。まずこれのみを装用してみたが、特に問題はないようである。ということは、今まではマスクの母体であるガーゼに使用されている薬品に対して過敏反応が生じていた可能性がたかいと判断した。

 次に、このオーガニックコットンマスクに、活性炭を使用したフィルターを入れてみた。この活性炭フィルタは、ニューハイパーマスクという、カイノールという会社が発売しているマスクの交換用として販売されているものであるが、特に問題なく使えるようである。ということで、現在筆者はこの複合マスクを装用している。このマスクは、きなり色であり、ヒモの部分もコットンでできており、自分で適当な長さに縛って使うようになっているので、少々不格好であるが、気にしないで使っている。

 中には、このフィルター自体に(フィルターに使用されている不織布あるいは中に入っている活性炭そのもの)反応するひとや、木綿そのものに対する過敏症を獲得するひともいるから、そういう場合はきなりの木綿マスクの装用、あるいは何も装用しない、という対策しかあるまい。気の毒なことである。

続きを読む "マスク" »

2007年10月23日

mosquito

0012374.JPG

 化学物質過敏症では、精神神経症状が出現することもひとつの特徴だ。筆者のばあいは不眠、悪夢というかたちで現れたのだが、昨日ハマダラカに関するコメントを頂いたところ、さっそくそのハマダラカが夢の中に現れたのだった。

 というのは半分冗談だが、昨晩の蚊の出現はまさしく悪夢だった。数ヶ所刺された上に、キンチョー蚊取りマットも使えない(過敏症のため)筆者が取った手段は、先日のベトナム行きのときに、デング熱予防のために購入したレモンユーカリのエッセンシャルオイルの使用。これを、手や顔やタオルに振りかけて寝た。

 しかし、対して蚊よけの効果がなかったばかりか(翌日さらに刺されていたので)、レモンユーカリエキスに対しての新たな過敏症を誘発してしまったようだ。

 本日、頭痛が取れず、寒気を催している。典型的な自律神経失調症状だ。また、蚊を殺せていないどころか、レモンユーカリが寝室中にまだ漂っているので、本日どこか別の場所を探さなければならないかもしれないが、もう筆者が眠れる場所は居間しかないのだ。ここで蚊に襲撃されたら、もうホテルに宿泊するしか方法がない。この時期まで蚊が生き残っているなど、温暖化の影響いがいにはありえない。

 化学物質を使わない蚊の撃退法・・・やっぱ、これしかないか。

 化学物質過敏症の患者さんには結構愛用されているもよう。こんなのこんなのもある。

 しかし、WikiPediaにも書いてある通り、安い線維でつくれば薬品を使わないから安価だし(でも大事に使わないと・・・)、蚊取り線香や蚊取りマットよりよほど効果は確実だ。
 ただし、寝相の悪い人間にはだめだな・・・

続きを読む "mosquito" »

2007年10月25日

ハーブティー

0012376.JPG

 幸い、体調は徐々に戻りつつあるようだ。印象として、やはり1)原因物質の回避 2)エアロビクス(自転車) 3)温熱療法(サウナ、岩盤浴)が有効なようだ。さきほども、小児のpostural orthostatic tachycardia syndrome (POTS) のPodcastを聴いていたのだが、自律神経の失調症状であること、エクササイズが有効であること、が共通している。興味深いことは、POTSに関しては、ひとつを除いていわゆる「健康的な生活」が有効であるということなのだが、その残りのひとつとは、「塩分を多く取る」ことなのである。つまり、POTSとは、起立したときに、血管のtonus(緊張)が弱いために、低血圧を来たし、反射性の頻拍を来す症候群(いわゆるOD, orthstatic dysregulationとほぼ同等の概念と思われる)であるために、血管内容量を保持する「塩分負荷」が有効である、というわけである。当然、血管の緊張が正常であれば、Volume Overloadは高血圧を来すから、塩分の取り過ぎは健康によくないわけであるが、では同じような自律神経の失調症状を来すCSのばあいには、塩分負荷は有効なのであろうか? 筆者には、理論的には有効であるように思われるのだが。特に、運動やサウナでは汗というかたちで塩分が喪失されるので、塩を舐めることは有効ではないだろうか。

 さて、こんかいはハーブティーの話である。これも検索してみるといくつかある。以前から家にあったものは、Dr.StuartのExtraordinary good teaというものだ。この "extraordinary" ということばは大げさな表現のように思われるが、聞いたところによると "She is ordinary." というのは、日本語で言う「十人並み」の意味ではなく、もっと直截に「彼女はブスである」というような意味のようだから、そういうわけでもないらしい。

 このDr.Stuartとは、「近代薬草学の父」といわれる人物であり、今も存命中ということである。そのシリーズの "DETOX" というお茶を(家にあったのはtranquility" というものだ)紀伊国屋で購入した。20袋入りのティーパックで、930円とこれは軒並みどの店でも同じ値段のようだ。すぐ気付くのは、パッケージを開けると薬草の匂いが立ちこめること。これは、揮発性の精油成分を多く含んでいる生薬が配合されていることを示している。ということは、密封して保管しておかなければ、早めに飲みきってしまわなければこれらのハーブティーの効果は期待できない、ということだ。もう数年も経っている "TRANQUILITY" のほうは、だめだろう。

 飲用してすぐにわかるのはカンゾウの甘味とショウガの辛味である。ショウガは漢方薬としても使用されていて、漢方では生のショウガ(生姜)と乾燥させたショウガ(乾姜)を使い分けるが、このハーブティーでは乾燥しているゆえ、漢方で言うと乾姜に当たる。ここで思い当たるのは、漢方薬で甘草+乾姜の組み合せは、「からだを暖める」処方の基本構成要素である、ということだ。甘草乾姜湯というこれら二味だけの簡単な処方がその基本であり、これに人参が加わればターミナルの状態の患者に用いてときに著効するという四逆湯となり、さらに茯苓を加えれば脾虚、すなわち消化機能の衰弱した患者に対する基本薬である四君子湯となる。

 とすると、漢方的には、甘草乾姜湯には利尿作用のある薬剤を組み合わせて用いるのが基本であるから、他の構成生薬を眺めてみる。"DETOX" には、他にこんな生薬が組み合わされている。

 西洋タンポポの根茎、ゴボウの根、コーン・シルク、オオアザミ、リコリスの根茎、ペパーミント、スペアーミント、セージ、ガランガルの根、アーキクチョクの葉

 うーん、ひとつひとつの生薬と、その組み合わせについて調べるだけの根性は、いまの筆者には、ない。

 ほかに、イタリアのアグロナチュラ社というところから発売されているものが、日本に入ってきているようだ。amazon.comで取り扱われているのはこの社の製品である。こんかいさまざまな「健康グッズ」の購入にあたり、あらためて認識したことだが、amazon.comはもはや本屋の範疇を超えて、ありとあらゆる通販に手を出している、総合通信販売の会社と化していることがわかった。空気清浄機、浄水器、100%オーガニックコットンタオル、ハーブティー、洗濯せっけんまで売っているとは思わなかった。筆者じしんは以前にamazon.comから鉄アレイなどを購入したこともあって、いろんなものを扱っていることじたいは知っていたのだが。

2007年10月26日

運動依存症

 化学物質過敏症とは、筆者のように比較的軽症例であるかぎりにおいて、また、それにかかる手間と費用を度外視すれば、これほど面白く、ためになる病気はない。

 ひとことでいうならば、以下にわれわれが、この現代において、不自然な生活を送っているのかがわかるからである。もともと、筆者は「ロハス」とか「エコ」ということばじたいは好きではなかった。この地球温暖化の時代に、二酸化炭素を増やさずに、化石エネルギーに頼らない、サステナブルな生活を人類が選択する必要があるのはよくわかるのだが、一般的に「自然食」などに凝ると、そこからなかば宗教めいた活動(ヒーリングやらマクロビオティックやらO-ringテストやら)に走る人間が跡を絶たないからだ。なので、むしろ、今まではそういった「ナチュラルフーズ」やらの店は敬遠していた。

 しかし、こういう病気に罹って、やっとわかった。そういう「自然」を謳っている店は、このような病気の人間にとっては、欠くべからざるものなのである。

 さまざまな合成化学物質は人間にとって必要なものだというのが一般的な認識である。その代表的なものが医薬品であろう。特に抗生物質は感染症による死亡を(じゃっかんではあるが)減少させた。まあ、これはあまり適当な例ではないかもしれない。「抗生物質」は本来生物由来の薬剤だからである。
 それが、いつのまにか生活のかなりの部分に入り込んでしまっている。通常われわれはそれに馴らされていて気がついていないが、考えてみれば由々しき事態である。そして化学物質の生活への導入は、それによりわれわれの生活が便利になるというよりは、むしろ製造過程の手間をはぶいたり、コストを安くできるというメリットの方が大きい。つまり、「ロハス」な生活を送ることで、われわれの生活の手間はそれほどかわらないのだが、コストがかなり上昇するのである。

 こうして、いつの間にか、せっけんのかわりに合成洗剤が、衣類には樟脳のかわりに無臭の防虫剤が、そしてトイレには消臭剤が、それぞれ置かれるようになった。そしてもっとも由々しき事態はわれわれの食べる食品にまでそれが入り込んでしまっていることである。実はきょう「キムチ」を買ってきたのだが、キムチは本来発酵食品であり、乳酸菌や酢酸菌の増殖により、酸が生み出され、蛋白が分解されアミノ酸がつくられるという天然食品である。これに、合成された乳酸を添加し、調味料などをかけてできたものが、現在市場で売られている「キムチ」のほとんどとなっている。これは、乳酸やアルコールを添加して、早く発酵する酵母を用いて作られた、現在の日本酒とおなじような状況である。そのほうが時間もかからず、コストも安く抑えられるからである。

 化学物質過敏症の治療は、こういう化学物質を生活の場からひとつひとつ追い出してゆくことである。筆者の場合はまず洗剤であった。次に必要なのは防虫剤の置換である。

0012379.JPG

 蚊に悩まされていることはすでに書いた。そこで選択肢に上がってくるのは蚊帳であるが、これは結構高価だ。本麻で洗濯可能なものは、十万近くするのである。そこで、蚊帳の導入は来年以降に持ち越すとして、登場するのは蚊取り線香である。

 今のベープマットやリキッドタイプは当然合成のピレスロイドであるが、すでに緑色の蚊取り線香の時代から、もう除虫菊は使われなくなっていたのだった。除虫菊を用いた線香は、緑色ではないからである。そして、天然の除虫菊を用いた線香は、化学物質過敏症でも使用できる(100%大丈夫ではないらしい)らしい。本日これから使用してみるが、大丈夫なのか??

 また、樟脳もナフタレンのイメージがあるが、ほんらい人間に優しい防虫剤なのだそうである。当然、除虫菊も樟脳も植物由来のものだから、化学合成にくらべてコストがかかる。そのようなコストは本来われわれが生きていくために当然負担すべきものであったはずが、「だいじょうぶだから」という理由で、コスト削減のために置き換えられていっている。筆者には、むしろ過敏症患者のほうが生物として真っ当であって、やはりそのような物質に囲まれて生きていて、長生きできるわけはないと思うのである。

 ちなみに、キムチはあきらかに浅漬かりであったのだが、とても美味しかったため、全部食べてしまった。今度はちゃんと本漬かりのものを食べよう。

 表題の「運動依存」についてはまた述べよう。

 

続きを読む "運動依存症" »

2007年11月01日

墓碑銘

 病気がよくなってくると、つい自分が特異体質(=病気持ち)であることをわすれがちになる。これは一面いいことでもあるのだが、反面うっかりした行動をとると死んでしまうことがある。

 このところ経験しているのが清涼飲料水と弁当をめぐる問題である。出先で咽が渇いたときに、誤ってポカリ○ウェットやアミノ酸入り飲料を選択してしまうと、飲用後数秒で悶絶することになる。同様に、化学調味料(というより、防腐剤や着色料かもしれない)の入っている弁当をうっかり食してしまうと、これも十秒くらい経つと反応があらわれる。十分飲食物には注意しなければならない。

 しかし、先週など調子の悪いときには、サウナかフィットネスで発汗が必要であった。まさに、ランナーズ・ハイ(ジョギング中毒症)とは違った意味で、体調(自律神経の失調症状)をコントロールするためには運動が必要なのである。ある意味、タバコの禁断症状などとは異なって、きわめて健康的な禁断症状ではあるのだが。

 少しづつ書類が山積みされている部屋の中で暮らすこともできるようになってきた。ただ、やはり紙質にもよるが、読書はなかなか大変である。

先日の読了
 小島信夫「墓碑銘」講談社文芸文庫 B

 先年亡くなった小島は、戦後活躍した作家の中では、特異な作風の持ち主であった。それは、私小説にちかいスタイルと(これは大庭みな子にも共通するところがある)、絶望的な状況におけるユーモア(これは椎名麟三にも共通するのか)である。そういう小島の代表作は、以前にも記したように「抱擁家族」と「麗しき日々」だと筆者には思われる。

 たしかに、本作は「アメリカ系日本人」という例外的な血統を持った主人公が、戦前の日本で徴兵され、日本軍人のひとりとして討ち死にするという意表を突いた作品であり、いわゆる戦争文学とは一線を画している。にもかかわらず、筆者はやはり前者の系統、特に「麗しき日々」のほうをむしろ推薦したいのである。

続きを読む "墓碑銘" »

2007年11月04日

フィトンチッド

_0012401.JPG

 病気のこともあり、週に三回は運動をし、週末にはなるべく山へ出かけることにしていたのだが。

 どうも今日は登山道を上がっているときから咽喉が痛むのだ。そして自宅へ帰って来てからも、異様なだるさと腰痛(というより、おもだるさ)が取れない。筆者の経験では、これは化学物質に暴露されたときの症状である。

 となると、思い当たる原因はひとつしかない。ハイキング、つまり杉の林の中を歩いたことじたいが原因なのではないだろうか。

 入浴剤としても使用されているヒノキチオールなどの化学物質はフィトンチッドと総称されている。いわゆる森林浴の有効成分と言われている天然の物質だが、もともとはヒノキや杉などの針葉樹が自らを害虫から防御するために放出する物質といわれている。だから、人間にも何らかの影響があってしかるべきなのだ。

 すると、これからはスギが植林されていない、広葉樹だけの山を探して登らなければならないことになる。関東の山には、ほとんどスギが植林されている。そうでない山を探すとなると、筆者の知る限り、西丹沢の桧洞丸や奥秩父の熊倉山がそうなのだが、でも桧洞丸って、名前からしてヒノキが生えていないとは思えないのだよなあ・・・
(熊倉山は植林されているようです。残念)

過日の購入
 安丸 良夫「近代天皇像の形成」岩波現代文庫
 小林多喜二「 老いた体操教師・瀧子其他」講談社文芸文庫

 購入したはよいが、果たして読めるのだろうか・・・・・

過日の読了
 竹西寛子「式子内親王・永福門院」講談社文芸文庫 ?

 著名な女流歌人に捧げるオマージュのような本である。筆者は和歌を嗜んだことなど(他人の作を読むことも、もちろん自作をものしてみることも)ほとんど皆無だから、彼らの歌がよいかどうかも、そして竹西氏の読みが卓越しているかどうかもまったくわからない。

 なので評価しようがないというのが正直なところだが、ほとんどまったく接することがなかった和歌の世界に触れられたことはよかったかもしれない。それに、和歌を知らない人間というものは、正岡子規の「歌詠みに与える書」などに毒されていて、万葉集以外の古今、新古今和歌集などの勅撰集を軽視する傾向があろうし、ましてや永福門院などの鎌倉末期から南北朝に渡る時代の歌人の歌など眼にする可能性はないだろうと思われるからである。

2007年11月14日

日本的思考?(2)

 筆者はもともとこの病気に罹患する前から食に関しては一家言あった人間だが、まず政府が本気でメタボ・成人病対策に乗り出すなら、費用対効果が抜群に優れているあることに最初に手を付けるべきだ。それは、

・義務教育および高校での保健体育授業の充実

 である。初期教育ほど効果的であり、しかもコストがかからないものはない。体育の教師が片手間に保健を教えるのでは全然駄目だ。同時に、家庭での健康的な食習慣を子供時代に身に付けさせることが重要だ。筆者が戦後日本の十大悪人のひとりに数えている藤田田(食品業界では安藤百福も十大悪人のひとりだ)がいうように、

「ある食品の消費を伸ばそうと思ったら、子供時代に食べさせる習慣を付けさせることが第一」

 という発言は、まさに食に関してはぴたりと当てはまる。この言葉を、マクドナルドという日本人の平均寿命を数年縮めることに貢献している企業を躍進させるために活用した藤田は、いったいビジネスマンのモラルとはどういうことかを今でも世に問うている、と言ってもよいが。

 さて、筆者にとって、鬼門の食品とは「弁当」である。市販の弁当を食べるとほぼ100%反応が出現する。それは、とりもなおさず弁当にはさまざまな薬品、すなわち着色料、保存料、甘味料、アミノ酸などの調味料などがふんだんに使用されていることを意味する。

 これは、どういうことだろうか。見栄えを良くすることが弁当の売れ行きに影響する、というのが理由のひとつ、さらにはさまざまな添加物を加えることで、コストをダウンさせる、というのが、筆者にはもっとも大きな理由のように思われる。

 このように、身の回りの食品で、添加物不使用の、言い換えれば筆者が食して反応しないものを見つけるのは結構難しいのだが、いつごろからこのようになってしまったのだろうか。

2007年11月16日

北里研究所病院受診

 化学物質過敏症における日本のパイオニアである同病院へ受診してきた。

 現在、同病院にて施行している、化学物質過敏症に関する特殊検査は、以下のものである。

・重心動揺計 身体の平衡機能を調べることで中枢神経の機能を見る
・移動光点追視計 光る点を眼球が追跡する能力を調べる
・格子視標検査 左あるいは右に傾いている格子を見分ける検査
・瞳孔径、瞳孔収縮検査 自律神経能を調べる

 筆者の場合、前三者には異常がなかった。つまり、中枢神経系の機能異常がなく、化学物質過敏症という診断が(少なくとも現在は)不適当である、ということである。最後の瞳孔検査のみが交感神経緊張型のパターンであり、自律神経失調が疑われる、というものであった。

 そこで、筆者の場合、診断は「化学物質過敏傾向」であり、「過敏症」ではなく、むしろ自律神経失調症状が顕著である、ということである。これは、もともと筆者の症状がむちうちと類似していたことと関連がある。

 担当の尾島先生によれば、「本物の」化学物質過敏症はごく少ないこと、しかし過敏傾向を有する人口は相当数に上る、ということである。中枢神経症状を発症するには特殊な体質が関与しているということだろう。

 また、「本物の」化学物質過敏症の場合、筆者が取ったような早期からの運動療法やサウナ療法は危険があり、生活指導による改善がある程度みられたのちに少しづつ行うことが必要であるとのこと。筆者の場合それらが有効であったのは、むしろ自律神経症状に効いたということであろうと思われる。それは筆者が最初から推測していた機序なのであるが、「本物の」過敏症では逆効果になることは、専門家の発言として強調しておきたい。

 またこれも筆者が予測していた通り、尾島先生によれば、過敏症は自律神経失調のみならず、精神神経疾患を合併する(どちらが先なのかはわからない)頻度がたかく、それがまた治療をむずかしくしている一因だということである。これも頷けることだ。転地療法に対して先生が批判的な見解を持っておられたのはちょっとびっくりした。


 筆者は病気の極期、つまり嗅覚異常が出現した時期に受診しなかったために、過敏症が軽快して過敏傾向となった可能性もある。いずれにせよ、現時点では過敏を有する物質の暴露を可能な限り避けて、運動・温熱という物理療法を続けてゆくのが正解である、という結論になる。

2007年11月28日

ダイエットはそんなに大変か

_B234576.JPG

 表題のことは、筆者が常に考えていることである。


 ダイエットが大変な理由、それは、

「お腹が空くから」「美味しいものを食べたいから」

 ではない、と筆者は考える。そうではなく、たぶん真の理由は

「ふだん食卓(弁当、外食)で供される食事の量が多過ぎる」

 ことに尽きる、と考えている。


 どういうことか。たとえば人種によるstatusの差が激しいアメリカにおいて、黒人のほうが白人に比べてダイエットに成功しない、あるいは肥満の割合がたかいといわれているのは、人種による体質の問題ではなく、「デブなこと」が黒人のアイデンティティと化しているからであると言われている。つまり、食行動は基本的に文化的なものであるというのがひとつの通念である。

 そしてその通念をかたちづくる上で大切なのは、上記のような文化的・イデオロギー的な側面もあるが、それよりも「食事とはこれくらい食べるものだ」という幼少時からの体験に基づく評価であるように筆者には思われる。つまり、外食に慣れてしまえば、平均カロリーがおそらく7,800kcalくらいになると思われる外食のカロリーを毎食摂取することがその人間の「基本値」としてインプットされてしまう、ということである。特にこれを筆者がつよく感ずるのは、海外旅行における朝食のビュッフェにおいてである。どうして欧米人の子供はあんなに大量に食べるのか? これは両親の食事の盛り方から学習している以外の説明はみつからない。

 つまり、肥満対策は、その個人個人を抗肥満薬や腸のバイパス術などで治療してみても解決にはならず、それよりも

「社会全体を対象に、幼少時から成人まで適切な量の食事を供するように指導する」

 という社会的な取り組みが重要であるように思われる。要するに、筆者の仮説は、

「肥満を持つ親の子供が肥満になりやすいのは、体質の遺伝よりも、食行動の伝統を受け継ぐことのほうが帰責性がたかい」

 というものである。そして、それらを是正するひとつの方法は、外食のカロリーにひとつの基準を与えることである。強制力としてではなく、指導というかたちでも十分だろう。とくに、「大盛り無料」などの店では、対して動くとも思われないサラリーマンがわれもと大盛りを頼んでいるのを見かけるが、そういうのは禁止してしまった方がいいように思われる。

 現在筆者は健康上の理由(化学物質過敏)のために減量中であり、二ヶ月で約3kgくらい落としたが、特に苦痛は感じない。

・間食は絶対にしない
・出される弁当は半量だけ食べる(もったいないけど・・・)

 のふたつを守るだけで、厳密にカロリー計算をしなくても、確実に痩せることができる。これは逆に、いかに外食(弁当を含む)のカロリーが多いかということを反映しているのではないか。禁煙において「禁煙は困難である」という思い込みが障害になるのと同様、「痩せられない」という思い込みも減量には禁物だが、これまで食べてきた食事の「妥当な量」がほんとうに妥当であったのか、その基準を低カロリー側にシフトすることに成功さえすれば、実は容易なことのように思われるのである。

昨日の読了
 ドストエフスキー「鰐」講談社文芸文庫 B

 「ドストエフスキーはユーモア作家であった」というのがこの編者の主張(訳者はいずれも高名な翻訳者だ)である。解説によると、日本でこの見解に最初にくみしたのは丸谷才一と吉田健一であり、ドストエフスキー研究では、ミハイル・バフチンの「ドストエフスキーの詩学」(持っているけどそこまで手が回らないなあ・・・)において、この主張は世界的なコンセンサスを得ることができたのだそうな。

 たしかに、ドストエフスキー後期の作品においても、しばしば喜劇的なドタバタが出現することは容易に気付かれることであろう。そういう意味では埴谷雄高のドストエフスキー受容はたしかに一面的なのかもしれない。

2008年01月30日

チャンピックス錠

 ファイザー製薬のホームページより。

 たしか、筆者の理解が正しければ、これは従来のパッチ型あるいはガム型ニコチン製剤とちがって、禁煙達成後もメインテナンスとしてリバウンドを抑制する目的で数ヶ月使用が可能になるはずである。

 いずれにせよ、発売開始後の情報提供を待とう。

2008年02月20日

元女子医大医師注射疑惑

 仮眠室で寝ていた看護師に対して、乱暴する目的で、お尻に薬剤を注射しようとして逮捕されたというものだが。

 あまりに状況設定が不自然なので、それが真実かどうかはさておき、m3.comの掲示板では「医師が筋注で誰かを眠らせようとするなんて、そんな奴が国家試験に受かるなんておかしい」などという書き込みが散見される。

 筆者は、そんな書き込みをするレベルのひくい医者がいることが、また嘆かわしいのだが。


 精神科の患者、あるいは意識障害があって暴れる患者、または協力の得られない小児の患者、そういった患者に、鎮静あるいは麻酔を目的とする静脈注射をすることは、一般的には不可能である(当然だろう)。なので、多少暴れてポイントを外してしまっても、確実に投与可能な筋注というのは、合理的な投与方法なのだ。

 しかし、筋肉から投与すると、血中濃度の上昇が緩やかで、催眠という目的で使用するには適さない薬剤も存在する(ジアゼパムなど)。こういった薬剤を用いようとしたのなら、それはやはりヤブということになる。


 有名なところでは、2007年1月1日から麻薬として取り扱いがされるようになった、塩酸ケタミン(ケタラール)がそのような医学的な意図を持って使われる。

 本事件ではどういう薬剤を使ったのかは不明だが(全身麻酔導入剤であるチオペンタール、商品名ラボナールなどを使用した可能性もありうる)、そうなると病院の薬剤管理のずさんさについても問われるべき可能性のある事件かもしれない。

続きを読む "元女子医大医師注射疑惑" »

2008年03月12日

医は仁術か?

 仕事がらみの読書はなるべく避けている。


 これは、テクニカルな本だったら仕方がない。たとえば冬山に登るときにウェア、靴、アイゼン、ピッケルなどの知識がどうしても必要なように、虫垂炎の手術をするときに、腹部の解剖やメスの使い方、診断技術などはどうしても必要だ(何を当たり前のことを書いているんだろう・・・)。筆者が意味しているのは、たとえば「ER」とか「医龍」とか「チーム・バチスタの栄光」とか、そういう本を避けている、ということである。

 こんかい、本書を買ってしまったのは、たんに「一冊でわかる」シリーズに収録されたから、という偶然の事情に過ぎない。


昨日の読了
 トニー・ホープ「一冊でわかる医療倫理」岩波書店 B

 一時期、筆者は医療倫理関連の本、特に社会学のそれを読みあさった時期があった。本書はそういう視点からは一線を画しているものである。むしろ、本書のアプローチは、経済学や法学的な思考に通ずるものがある。つまり、計量(ベンサム的な功利だけではなく、もちろん倫理学的な計量も含んでいる)と比較考量、つまりどのアプローチを取れば効用が最大になるのか、という観点で書かれていると言ってよい。つまり、倫理という響きのイメージから受ける印象とは、かなりちがった発想といえなくもない。

 しかし、医療資源の配分の問題(一病院内、日本国内、全世界)は筆者もかなり前から着目していた論点であるし、このような論理学、経済学的な議論による倫理という行き方は、筆者は全面的に賛成である。そして、そのような考え方のできない、目の前の患者にとにかく全医療資源を(無意味に)注入して、自己満足に浸っている医者もたくさんいるということをここに記しておこう。つまり、本書は一般の方の興味を引く内容であると共に、医師にとっても読むに値する入門書であると言える。

2008年03月20日

m3.com revisited

 日本最大の医療系サイトであることを謳っているm3.com(最大なのは2ちゃんだろうが、これは閲覧が医療関係者だけに限られていることが特徴だ)、ここの最近の記事の特徴は、医療制度改革(改悪)および医事紛争のニュースに多くを割いていることだ。おそらく、インターネットを利用する医療関係者は、従来診療に関する情報の検索にネットを利用していたケースが多かったであろうが、筆者を含め多くの医療関係者は今や制度や訴訟の知識を得るために利用している時間が増えているのだと思われる。

 そしてそのような本来の業務を離れた知識の習得および対策に追われている現状があると、それは本来の業務への精力の注入の低下というかたちであらわれる。そして、最終的にこのような結果を招いてしまうことになる。

 最新の記事の中に、検察審査会法改正に関する議論が載っていた。唖然とするばかりである。おそらく、法曹の世界も他の世界も、専門性というものが軽視され、大衆の良識というものを信頼するという流れになっているのだろう。大衆の良識?? 橋下を選んでしまう「大衆」など、信用できるわけがないのは自明だとおもうのだが、そんなふうに思ったり書いてしまうのは、筆者がエリート主義者だからであろうか?

 「かつての大衆は・・・」と昔を持ち上げて今をけなす、というのも筆者の嫌いな手法であるが、たしかにむかしから日本は識字率がずばぬけて高い国であり、その国民的教養のたかさは明治維新期の外国人が驚嘆しているところである。つまり、「国民の良識」に信頼を置いてよい素地は十分あるどころか、世界一といってもいいレベルを誇っていた時期があったはずである。

 メディアによるコントロール(というよりはいわゆる「言説」の流布を通じてのソフトなコントロール)に対抗する手段として、インターネットが「情報の透明性」を担保する上で期待されていた時期があったが、もはやインターネットの有用性と限界はもう見えたとも思われる。やはり情報のプロフェッショナルによる質の高い報道を怪しげな噂話レベルの掲示板が上回ることなどありえないのだ。まだしも出版される本が話題性を帯びることもあることからすれば、活字メディアにもある程度期待できる余地はあるが、もうひとびとは消費性のたかい(プロは「読み捨て」と称するらしい)新書・文庫いがいの手間のかかる本を読み込んで、自分で考えることを辞めてしまったように思われる。

 権力を押し付けられた大衆は、これからどうするのか。


本日の購入

 「現代思想」2008.2月号 特集「医療崩壊」 青土社
 ロバート・ジュラテリー「ヒトラーを支持したドイツ国民」みすず書房
 薬師寺仁志「民主主義という錯覚」PHP
 城川隆生「丹沢の行者道を歩く」白山書房
 「日本の百年6 震災にゆらぐ」
 エドワード・サイード「文化と抵抗」以上ちくま学芸文庫
 小川国夫「試みの岸」
 吉行淳之介「やわらかい話2」以上講談社文芸文庫
 メイナード・ケインズ「雇用、利子および貨幣の一般理論(下)」岩波文庫

 ジュラテリーの本書、ドイツ政府は本書の独語訳の廉価版を(原書は英語)作製・配布しているとのことである。勇気ある行動である。戦争責任を認めることは、その政府の威信をたかめることが、日本政府には理解できないらしい(むろん、賠償の問題があることはわかるが)。
 薬師寺のこの本は出版社をみても、どちらかというと保守的な立場の著作なのであろう。
 白山書房という会社は山岳関係の専門出版社らしいが、他にも「知られざる山々—山形・新潟・福島の道無き山 」とか「新潟の低山藪山」とか、いったい誰が読むのだろう、というおたっきーな本を出版している。「丹沢の行者道を歩く」も十分マニアックな本だと思うが、それを購入してしまう筆者って、いったい・・・

2008年03月28日

DP-1

 買ってしまった。こんどGR digitalのかわりに山へ持っていくことになろう。サンプル画像はまたそのときにでも載せようとおもう。

 さて、単行本ではないが、青土社の「現代思想」二月号、「医療崩壊」について簡単にまとめておこう。いちばんすぐれていたのは、石井暎禧氏の「「医療崩壊」 の真実」という論考。これを読むだけでも本雑誌を買う価値はある。戦後日本の医療政策の光と影について、簡潔かつ的確にまとめられている。著者の石井氏はある病院の院長のようで、筆者は名前を知らなかったが、きわめて参考になる記事であった。

 逆に最悪なのが美馬なにがしという神経内科医/医療社会学者の「リスク社会と医療 「崩壊」」という記事である。これは象牙の塔に住む学者の悪い部分だけを取り出したような論説である。特にイヴァン・イリイチを引いたようなところは救いようがない。先ほどの石井氏も医師であるが、これほど格差があるのもある意味日本の医療を象徴しているとも言えよう。

 さて、個々の論説がどうというよりも、筆者には、このラディカル左派を象徴するような雑誌である「現代思想」誌が関心を持つ「医療崩壊」が、「救急車がたらい回しにされる」とか「お産ができない」ということよりも、「高齢者が切り捨てされる」とか「神経難病や末期患者、認知症の患者のような『生命の価値の低いと考えられる患者』の合法的殺人が可能になる」というような側面に光を当てていることが、ある意味興味深いし、ある意味社会的な認知を得られにくくしているようにも感じられた。つまり・・・

 合法的安楽死や「生命の価値の低い患者の殺人」は、「ふつうに社会生活を送っている人間」からすれば、優先度の低い問題である、と通常は感じられるはずだ。なぜならば、それは医療資源が有限である、ということと密接に関係してくるからである。

 飢餓で子供が何人も死んでゆき、人間の平均余命が三十代であるようなアフリカ諸国では、そもそもALS(筋萎縮性側索硬化症、徐々に寝たきりになる神経難病)のような病気を発病した場合、生きることはできない。生命維持に必要なコストを、経口補液やワクチンに回した方が医療政策上適切であるからだ。

 日本のように、医療にある程度のコストをかけられる状況では、ここまで極端なベンサム的予算配分は幸いにして必要がない。しかし、政策的に高度先端医療には、その直接的なベネフィットを超える比重が与えられているのは、それによる将来の患者救済の可能性をも含めた「国策」であろう。現行ではそれはもったいないというほかはない。逆に、認知症や神経難病・高次機能障害のように、「誰でも起きる可能性はあるが、発病した場合、そのコストが病人本人の社会的生産性を上昇させない場合」への医療費の配分は、最終的には社会的な合意のもとに行われることになろう。

 で、喫緊の「二次・三次救急崩壊」などの問題を置いておいて、ある意味マイナーな問題を「現代思想」誌が訴えなければならない理由は、悪意に取ればそれが哲学・倫理学的に面白いがゆえに専攻する学者が多いという事情と、善意にとれば「社会的な生産性のない人間にはカネをかける必要はない」という右派の見解を戦うべき対象とみなしているからなのであろう。

 ただ、その左派の意見が実現されるためには、やはり金銭的な余裕がどうしても必要なのである。ムダな出費(公共事業や防衛費などだろうか?)を削って医療・福祉費に充てろ、という議論はもともと共産党や社民党のお得意とするところだが、公共事業を無駄と断罪したところで、それによって生活の糧を得ている人間が無数といる以上、結局は適切な所得の再配分などは不可能とも言えるからである。

2008年03月31日

やだけったら、矢岳

 だんだん山登り専門サイトみたいになってしまっているので、そろそろカテゴリ追加しなくてはいけない。

 さいきん、足の腐った患者に対する「無菌ウジ虫療法」というのが一部で話題になっているらしい。内科医の大半が加入している「日本内科学会」の学会誌にも記事があったから、かなり知名度は高いのであろう。太平洋戦争の戦記を読んでいると、かならずといっていいほど傷病兵の足にハエがたかってウジが湧いている記載が出てくる。その中のコメントに、「ある意味ウジは傷口の掃除をしてくれているのだが・・・」などというのがあり、むかしからウジは創傷治癒にかならずしもマイナスにならないという認識はあったようだ。しかしそれらのウジは無菌ではなくさまざまな細菌を背負っているわけだが、それはもともと患部に住んでいるもので、それほどの実害はないものなのであろう。

 さて、こんかいは奥武蔵の秘められた山である(この形容詞が当てはまるのは、ほかには有間山くらいしかないだろう)矢岳へ行ってきた。この山は通常奥多摩、長沢背稜の酉谷山と結んで縦走されることが多い。単独でこの山へ登ろうとすれば、武州中川の駅から直接登るルートと、武州日野の駅から林道を延々と歩く烏帽子谷ルートのふたつを組み合わせていくしかない。筆者は烏帽子谷から登って武州中川へ降りるルートを考えていたが、車内で気が変わってその逆ルートでいくことにした。結果的にはそれが幸いしたのだが。

 武州中川からは指導標などはなく、自力で1/25,000の地図をみながらルートを探す必要がある。浄水所の左手から山道になる。しばらく行くと農家数軒の集落となり(ここは梅や季節の花が植えてあってとても雰囲気のいいところだ)そこに「大反山、矢岳」方面を示す道標がある。

 しばらくは営林署の水源林監視道と重なるため、極めてよく整備されている。とても登山地図で点線で記されている道とは思えない。しばらくしてこの監視道から外れ、尾根を上がるようになるが、この道はたしかにあまりはっきりしない。しかし、霧で視界が利かないことでもないかぎり、たとえ雪道でもコースを外すことはなかろう。

 若神子山は気付かずに通り過ぎ、次の大反山を若神子のピークだと思っていたが、次の電線の鉄塔のところで誤解に気付く。その鉄塔へ到着する前に、次のような山岳救助隊のメモが貼り付けられてあった。矢岳から大反山方向へ向かうハイカーのためのものらしい。「この先は大反山への道がはっきりしないので・・・引き返す勇気を」というようなものである。しかし、矢岳からここに到着するということは、酉谷山から来たか、烏帽子谷ルートから来たということである。酉谷山へ引き返すわけにはいかないし、烏帽子谷ルートのあの箇所を渡ってこれるということは、全然先へ進む心配はないということなのに・・・

SDIM08.jpg

 次の篠戸山のピークくらいから目立って鹿のフンが多くなる。ようは、あまり人が歩かない道である、ということらしい。そしてこんどは「ここから矢岳までは道不明瞭・・・引き返す勇気を」のメモである。さて、もしこの警告に従った場合、先の警告の箇所まで戻ることになる。そして、警告に従った場合、ハイカーは永遠にこのふたつの看板のあいだで往復運動を強いられるわけである(笑)。

SDIM09.jpg

 そこから少々の上り下りを経て、程なく矢岳へ到着。駅からほぼ四時間の工程である(予想通り)。軽い登山靴あるいはトレランシューズを履いて行けばもっと早く到着可能だろう。ここまでは危険な岩場などは一切なかった。さて、問題はここからの下山ルートである。頂上から北西に向かう尾根があって、そこを降りることが可能なのだ。問題はそのルートを外した場合には、かなりの危険が予想されるということだ。さあ、どうする?

SDIM13.jpg

 いったんは西北に向かって降りてみたものの、傾斜が急でしかも未整備の道のため、下降は困難と判断。ふたたび頂上へ登り返す。ここで三十分弱ロスをしてしまった。結局は山岳救助隊のお勧め通り、南へ抜け旧荒川村へ降りる烏帽子谷ルートを選択した。さてここからも鹿のフンを大量に踏みながらヤブをかき分けるという道が続く。降雪のため足下も滑り、慎重に進む必要があった。道は明瞭ながらもたしかに一般ルートではない。三十分強進んだところで荒川分岐に到着。ここもはっきりしない看板がひとつあるだけである。「2002年の時点で林道は崩落、危険」とのこと。じゃあ、あの山頂の看板は何だったのだろう??

SDIM14.jpg

 意を決して進むことにした。たしかにヤブはひどく、夏期にここを辿るのはたいへんであろう。しかし今の時期はまた積雪のため通行はかなり危険で、スリップ・滑落の可能性もたかい。ルートはある程度明瞭だが、ルート・ファインディングは必要。かなり神経を使う道であった。さすがに、倒木が道を完全に塞いでいる箇所へ来ると、「これはどうしたものか・・・」と思ったが、意を決して枝を跨いでゆくと、その木全体が動いた。根元から切られているから当然ではあるが、この木が落ちて行ったら助からない。そぉーと越え、なんとか通過。

SDIM15.jpg

 ようやくの思いで林道へ到着。ここに、おそらく一年以内に立てられたであろう、立派な指導標があった。そこには何の注意書きもないから、通常は、ここから林道歩きの気楽な下山となるはずだった。しかし、そうはいかなかったのだ。まず、第一の崩落箇所へ到着。道が50cmくらい残されていたから、その部分を注意しながら通過。けっこうスリリングだ。ほかは崩落ではなく崩壊箇所であり、大きな石がごろごろしているような場所を通過してゆく。崩落箇所は二箇所だと書いてあったのだが・・・

 地図上ではここにあたる部分が大きく崩落していた。道は完全に落ちて、通行は不能だ。いったん下に降りて道路へ登り返すか、上から回り込むかどちらかしかないが、共に傾斜が急過ぎて登り、下りともに危険である。しかし、ここを通過しない限り、家に帰れない。困った・・・・・

SDIM26.jpg

 これ、写真では遠近感が掴みにくいが、右の崩落箇所に下から這い上るのはほとんど不能である。

 崩落したガケの先をみてみると、林道が下を通行しているのが見えた。そこまでの道は、急な沢であり、ガレ場となっている。降りれないことはなさそうだ。転倒しないよう、慎重に足場を選んで降りる。何とか下の林道に降りることができた。しかし、この箇所、下りはよいが、上りの場合、ここから上の林道へ登らなければ通過不可能であるということは、理解し難い。おそらく上の崩落箇所へ至って、途方にくれるであろう。崩落箇所から林道へ出ることはかなりむずかしいからだ。いったん下にさがって、先ほどのガレ場を上がらなくてはならない。ここは、何らかの道標が欲しいところである。しかし、致し方あるまい。そういった整備がされてないがゆえに、貴重なコースなのであるから。たとえば、万が一ナルちゃんが登頂でもしたらどうなるだろうか? こんなマイナーコースに彼が来ることはないだろうが(しかし御正体山へ登ったということは、ありえるか?)、この山が整備されたら「奥武蔵一のプリミティブな山」ではなくなってしまう。そうしたら、もうこの山へくる登山客は多いに減るだろう。整備されれば何でもいいというものではないのである。

SDIM29.jpg

 崩落箇所の下を走る林道からガレ場をみたところ。ここを登らないと林道に上がれない。

 けっきょく、武州日野の駅へ着いたのは四時を回った。下山のほうにより時間がかかったわけである。帰りに地元のひとから声をかけられた。そのひとも去年の十一月に上ったそうだが、すでに崩落があったそうである。やはり道路特定財源は必要なのかもしれない(関係ない)。

 というわけで、写真はあとで掲載します。もういちど読んでみてください。

2008年04月12日

不健康エコナ

 いぜん、ここでエコナについて触れた。このときにまとめ買いしたエコナがついになくなったので、これからどうしようかと思っていたのだが、さいきんはエコナについていろんな疑惑が巻き起こっているようだ。曰く、トランス脂肪酸の含有量が多い、発ガン性が否定できない、など。たとえば、ここ

 認可の経緯をみるかぎり、やはり花王の政治力によるところが大きいと考えざるを得ない。T田、D一S共、Aステラスなどの薬剤の認可がいとも簡単に行われるのと同じ理屈である。官僚の害が糾弾されて久しいが、やはり日本の国家の仕組みは官僚のために存在するといっていいのだろう。

2008年06月07日

限界状況

 先日、現代思想誌の特集号二冊について触れた。そのときに、不釣り合いな割合でALS(筋萎縮性側索硬化症)について議論の紙数が割かれていたことについて述べた。

 そこでは、レスピレーター長期装着について当然肯定的な文脈で議論が進んでいて、たとえば神戸地震の際、ALSの患者のレスピレーターが動かないという事態が生じて云々という話があったと思う(筆者の勘違いかもしれない)。そのことと関連して、近い将来に生ずるであろう、「限界状況」について少し触れておこう。

 その限界状況とは、新型インフルエンザのパンデミックにかんすることである。過去のパンデミックの推計から推して、また従来型インフルエンザとの毒力の比較からして、まちがいなく流行が起きれば多数の患者が呼吸不全に陥り、日本全国どこでもレスピレーターが不足する事態となる。レスピレーター開発の端緒となったスウェーデンのポリオの事例と比べて、このような事態では、(比較的)高濃度酸素の投与およびPEEP(呼気週末に陽圧をかける呼吸)などが必要であるため、これを人力で代用するわけには当然いかない。

 現在、日本の各地には、ALSのような神経疾患、あるいはもっとポピュラーなケースでは、脳血管障害あるいは認知症の進行の結果、半分植物状態にちかいようなケースで、「家族の希望」により(本人は事態を認知し、意思表示が出来る状態にないから)レスピレーターが装着されている患者が無数にいる。このような限界状況において、「既得権」、つまりそのような患者では、生命維持のためにレスピレーターが必要であるという理由を持って、新規のインフルエンザ関連呼吸不全にレスピレーターをつけない(数が足らないから)という選択が、政治的に許容されるかどうかが、筆者の議論の対象である。

 つまり、もし新型インフルエンザに罹患し、レスピレーターによって回復した患者がいる場合、その回復後の患者は、インフルエンザに対する免疫を獲得するから、患者のケアといった「危険な」業務に従事してもらうことが可能となる。このようなパンデミックでは、通常の社会の機能は麻痺するから、食料や医薬品の物流や、警察機能などの、市民の生命を維持するために必要な機能だけが維持され、あとは大量の病人のケアに追われるから、そのような回復後の患者の存在は、貴重であるのだ。

 そのような社会機能の維持を重視するならば、救急現場におけるトリアージよりも、さらに「非人道的な」トリアージ、つまり、生命維持装置がなければ生をまっとうしえない患者のレスピレーターを外し、新型インフルエンザの患者につける、という選択が必要となってくる。ようは、既得権を重視し、回復可能性のある患者にレスピを使うことを断念させるか、あるいは回復可能性を重視し、このような限界状況では「価値の低い」つまり、社会の基幹システムを支えたり、健常人には不可能な、感染性の高い患者をケアできる能力のない、これらのひとびとの生を断念するか、の二者択一が、このような状況では必要になるのではないか、ということである。

 そして、もし、ベンサム的な「最大多数の最大幸福」の概念に基づいて行動するならば(救急の場の「トリアージ」は、まさにここにその根拠を置いていると考えられる。つまり、限られた資源を限られた人間に配分しなければならない場合の、その分配の問題だ)、救命可能性が高く、しかも免疫を保持して危険な業務に当たることの出来る、これらインフルエンザ急性期の患者に優先的に呼吸器を配分することが妥当である、という話になろう。じっさい、これらの限界状況は目前に迫っており、このような場合のコンセンサスを今からつくっておくことは、必要ではないだろうか。こういった観点からすると、「現代思想」誌の議論は、楽天的過ぎるのである。

2008年06月25日

本来ご法度なのですが

 こういう記事は、やはり広く世の中に知られた方がいいと思うので、独断で転載します。

 これが昨今の日本人の実態です。「中高年」とあるところに注目(つまり「今どきの若い者」が悪いわけではない)。

 この国は滅びた方がいいよ。


「航空機内で心肺停止した男性に蘇生(そせい)措置をして助けた女性が、やじ馬状態のほかの乗客に写真を撮影され、強い恐怖心などから心的外傷後ストレス障害(PTSD)になった。心肺蘇生法が普及し一般の人が救命活動にかかわる機会は増えたが、助けられなかった場合にも精神的な傷を負う恐れがある。厚生労働省は救命への意識が高まる中、これらのケースに対する心のケアなどの支援が急務と、対策の検討を始めた。

 ▽過呼吸症状

 女性を診察した国保旭中央病院(千葉県)神経精神科の大塚祐司(おおつか・ゆうじ)医師によると、女性は会社員だが救急法の指導員資格を持っており、約2年前、機内の通路で倒れた50代の男性に、独りで人工呼吸や心臓マッサージをした。約1時間後、男性は呼吸が戻り、規則的な心拍も回復して命を取り留めた。

 この間、多くの中高年の日本人男性乗客らが「テレビと同じ」「やめたら死ぬんでしょ」などと言いながら携帯電話やビデオで撮影。客室乗務員は手伝わず、心臓に電気ショックを与える自動体外式除細動器(AED)を頼んだが、持ってこなかったという。

 女性は日本人に不信感を抱き、特に中年男性が集まる場所で過呼吸症状が出るようになった。カメラのシャッター音が怖く携帯電話のカメラも使えず、当時のことが繰り返し思い出され、物事にも集中できなくなった。

 大塚医師は、女性が急性ストレス障害を経てPTSDが約半年続いていたと診断した。女性は、今もカメラを使ったり撮影されたりするのが嫌で「やじ馬の罵声(ばせい)と圧力の怖さは忘れないと思う」と話しているという。

 大塚医師は「救命活動をした後に、つらいと感じたら専門医を受診してほしい」と呼び掛ける。」

続きを読む "本来ご法度なのですが" »

2008年07月08日

傷害罪&「イラク戦争のアメリカ」

 筆者が前回でモラルの失墜を嘆くのは、倫理的な観点からではない。職業人としての立場から警鐘を鳴らしたいがためである。

 さいきん、タクシーにおいて後部座席の客に対してシートベルト着用が義務づけられた。これに対して「どうして?」とおもうのは、筆者だけだろうか。はっきり言って事故によって被害を受けるのは、当の客だけであり、ひょっとしたら運転手にも被害が及ぶ可能性もありうるが、基本的にはそれだけである。つまり、後部座席のシートベルトは「自己責任」いがいの要素は少なく、これを法的に強制する根拠にはいささか乏しいとおもわざるをえない(誤解があったら筆者に教えてください)。

 このような客に対して規制をするのなら、もっと規制対象にする人間たちがいるはずである、と筆者はおもう。それは、現実に<<傷害罪>>を冒し続けているやからである。それは、公共機関でたばこをふかし続ける喫煙者たちか? たしかに、彼らも<<傷害罪>>を犯している可能性はたかいが、それを実証するのはなかなか大変であり、また被害は累積的なもので、ひとりひとりの寄与は小さいと判断せざるを得ない。では、いったい誰であろう。それは、

「風邪を引いたのに公共交通機関の中でマスクをしない人間たち」

である。

 自分が性病に罹っていることを知りつつ、それを隠して異性と性交渉を繰り返す人間は、障害未遂罪であり、実際に感染が成立すれば傷害罪となる(判例あり、だったとおもう)。満員の車内でくしゃみや咳をし続ける不届き者たちは当然傷害罪に相当する。後部座席の客に罰金を科すよりも、これらの輩を取り締まることのほうが急務である。

 なぜか。それは、日本人の健康意識に大いなる欠陥があるからである。

 たとえば、「メタボ」。これは、あくまで「個人の健康維持に寄与する」目的で啓蒙されている。だから、メタボの人間がそれを放置したとて、困るのは当人自身である。そして、このように、「自力での健康増進、あるいは健康維持」という発想しか、ほとんどすべての日本人は抱いていない。自力救済の思想であり、これを公衆衛生学では「個人防衛」と呼ぶ。

 しかし、個人防衛ではまったく不十分な病気がある。それが、伝染病である。伝染病を予防するポイントは、まず「ある集団の中での有病率=他人に感染させる可能性のある患者数を減らす」ことである。患者が少なければ、そこから大流行する可能性は低くなる。そしてその少数の患者を健常人と接触させないようにすればよい。しかし、とても伝染性の強い病気の場合には、この戦略ではむずかしい。その場合には、「ある集団の伝染病に対する抵抗力を上げる」ことが必要となる。これは具体的にはワクチンを打つことだ。それによって、母集団の罹患率を減らし、その結果有病率を減らすことができる。この考えがワクチン接種の発想であり、ワクチン接種は個人防衛のためというよりは、集団防衛のためなのである。そういう意味で、「自分の子供には注射を受けさせたくない」という保護者の考えは、ワクチン接種の根本的な誤解に基づくということが言える。

 さて話を戻すが、マスクという衛生材料は、「自分の感染を予防する」という個人防衛に用いるものではなく、「自分が感染した場合、他人にうつさない」ための、集団防衛用のものなのである。さいきんは各種フィルターのついた、前者の役割も果たすものも出てきているが、あくまで基本は後者である。これをかけることでくしゃみによる飛沫の飛散を押さえることができ、感染の広がりをある程度防止できる。都市部でこれを徹底してもらえば、インフルエンザの流行に多少は歯止めがかかるはずである。

 最近、三菱総研と千葉大の共同研究で、「新型インフルエンザの流行の拡大防止には、通勤電車の運行の中止、学級閉鎖、ワクチン接種がある程度有効である」という結果が発表された。これはインフルエンザの伝搬様式(飛沫感染)を考えれば、合理的な対処ということが言える。それ以前に、まずは後部座席のタクシー客を取り締まる暇があるなら、駅で紙マスクを無料配布し(それくらいの費用は税金から出費すべきだ)それをかけない感冒罹患者を取り締まる、といった対策を早急に講じて欲しい。ウイルスを確信的にばらまく彼らはまちがいなく犯罪者なのだから。今厚労省は「咳エチケット」という標語を作ってマスク装用を広めようとしているが、それではまったく不十分である。小中学校での十分な教育と無料マスク配布、そして法的な非着用者の取り締まりが必要であろう。

最近の読了
 ジョージ・パッカー「イラク戦争のアメリカ」みすず書房 B
 岩井克人「二十一世紀の資本主義論」ちくま学芸文庫 C

 まず、前者のBは、Cに近いBである。本書は、イラク戦争に対して多大な期待をかけていたジャーナリストが、イラク戦争の終結後時間が経つにつれて、アメリカの占領政策の稚拙さと、拡大してゆく部族(宗教)間構想を目の当たりにして、「イラク戦争はまちがいだった」と結論してゆく、というストーリーである。
 本書の何がいけないのか。それは、そもそも、「アメリカだけが他の主権国家に戦争を仕掛けてよい。なぜなら、アメリカが信奉する民主主義は、最善で普遍的な理念であるから」という傲慢さに対して、著者が全く疑念を抱いていないことである。そしてその疑念のなさは、イラク戦争の失敗を悟ったあとでも続いているように、筆者には読める。
 「人道的介入」については、前にも書いた通り、岩波新書に収められている最上俊樹氏の論考が決定版とも言える内容であり、彼はそこで「人道的介入」が許容される基準をかなり厳しく定めている。イラク戦争の開始に当たって、そのような考察がなされていなかったことは本書によらずとも明らかであり、そういう意味ではイラク戦のルポとして一読の価値はあるが、イラク戦の本質を考える上では無用の長物とも言える。ので、あまり筆者は勧めたくはない。

 岩井氏の本、あとがきで氏じしんが述べている通り、「繰り返し同じことを語っている」本である。なので、最初の一篇だけ読めば十分であり、通読する価値はないように筆者には思われる。ようは、「ヴェニスの商人の資本論」で岩井氏は終了してしまったのであろう。

2008年07月24日

女性にバイアグラ!?

 これは面白い。

http://jama.ama-assn.org/cgi/content/full/300/4/395

 アメリカの医学雑誌JAMAに掲載されたものだが、SSRI(抗うつ剤)を服用した女性患者に対し、その副作用である性機能障害への対処としてバイアグラを処方したという研究である。

 効いたらしい!

 そのメカニズムだが、性欲減退に対する効果はないらしい。むしろ、オーガズムに至るのを促進する効果があって、その理由として各種ホルモンが性器の組織において作用することを助ける可能性があることを挙げている。
 しかし、筆者がおもうに、もともと解剖学的に女性のクリトリスは男性のペニスと同じものであるから、クリトリスの勃起を促進することで、オーガズムに至りやすくなるのではないか。

 さて、筆者の関心は、これがふつうの冷感症の女性に応用できるのかどうか、ということである。各種研究によれば、女性がセックスでオーガズムを得られる率はそれほど高いわけではない、ということであるから、<<イキにくい>>女性に対する武器(?)として本薬剤が有効ではないか、ということだ。

 どなたかの突撃レポートを期待している。

続きを読む "女性にバイアグラ!?" »

2008年08月02日

ネット時代に対応できないビジネスシステム

 筆者は医療プロパーな話題をここに書くつもりはない。読者(って、どなた?)もそんなことを期待していない(それを言うならそもそも山登りの話題など誰も喜ばないよ!)と思うからなのだが、最近友人のblogで、「病院で病状の説明を求めたらスゴくイヤな顔をされた」という経験をした、という記事があったので、筆者の考えを少し書くことにする。内容はどうせ今まで述べたことの焼き直しに過ぎない。

 新自由主義、すなわち自己決定・自己責任時代のトレンドは、一億総専門家であり、そのためにはインターネットで、医療に関して言えば「医学部での六年間の専門教育を必要とせずに、医師と渡り合う」ためのさまざまな情報が発信され、患者によって探され、読まれるということが必須条件となっている。そして、専門家に対する社会的尊敬の欠如、モンスター化の嚆矢となったのが70年代に始まった「学校崩壊」であり、その潮流が今や日常的に接するあらゆる専門家(主に資格職)に及んでいるというように筆者は理解している。

 ここで問題にしたいのは、消費者の専門家化、医療で言えば自己決定権の尊重、ひいてはそれを追求すれば医療機関は「手術や投薬といったマテリアルやメソッドだけ提供し、それらをどう使うかはすべて患者側の指示による」という患者による自己治療に繋がるような社会の変化に現場が対応できていないことだが、それは医療者側の意識がそうだ、というよりは(意識の問題もあるけれども)医療システムがそのような「患者の専門家化」を想定していないところに最大の問題がある、ということなのだ。

 それは医療機関が一方的に悪いわけではない。それを具体的に説明しよう。従来の医療システムは、「患者は権威ある専門家である医師に従い、疑問や不服は抱かないし唱えないとする」という前提で機能してきたということである。この前提は度重なる医事紛争の増加を見てももはや通用しないものであることはあきらかだが、それに見合うかたちでシステムの再構築がなされているかというと、否、なのである。簡単な実例を挙げると、今のように一人三分から五分間で終わる(終えなくてはならない)外来診療で、半数の患者から質問あるいは疑問が寄せられるとする。一時間でこなさなくてはならない患者数はだいたい(病院にもよろうが)10人から20人の間であるから(厚労省が今回設けた、「診察時間が五分を越えれば外来管理加算を取ってよい」という制度からすれば、一人の診療時間が五分なら時間12人、ということになる)50人来院する病院であれば標準外来時間内に診療は終わらない。九時スタートなら十三時を回ってしまい、午後からの診療に支障を来す結果となる(で、昼食を取る時間がなく午後の作業効率が落ちることもある)。そこに、一回三分の質疑応答時間が発生したらどうなるか。25人 x 3分 =75分の過剰時間が発生する。すると、外来終了が十四時となり、開始時間が決まっている検査(胃カメラや超音波検査など)に支障を来す可能性が生じてくる。

 また、入院している病棟患者の場合、本人への説明はもちろん、家族への説明も必要(実は、万が一本人が死亡してしまっても、家族が十分に納得していればトラブルは発生せず、本人よりも家族への説明が重視されるという、本人の自己決定権、知る権利の尊重を無視した事態が発生しているのも事実だ)である。この説明は大抵三分では終わらず、長いと三十分から一時間の時間が発生する。また、家族が複数であり、来院してその都度説明を求めるという事態も発生し、断り方によってはやはりトラブルにもなりかねないので(事前にアポイントを取るという「社会的常識」は、そのようなトラブルメーカーには通用するわけがない)できる限り対応するわけだが(非常識な人間のほうが訴訟や告発という激烈な手段に訴える可能性が高いから)、すると同一患者について同じ説明をすることで二倍、三倍の時間がかかることになる。この場合、病状説明は業務であるから、勤務時間内に行うべきであるし、筆者はできるかぎりそのように心がけてはいるのだが、繁忙な病院では、勤務時間はすべて純粋な業務行為(診察、投薬、検査、手術など)に当てざるを得ず、病状説明は十七時以降に行うとしている医師も多い。つまり、構造的に残業が発生することになっている。また、手術や検査の際、「同意書」を取得することが国の医療政策としても医療者側の訴訟対策としても当然視されているため、十年前に比較してこの「病状説明」のための時間は飛躍的に増えている。厚労省はそれに一定の保険点数を与えてはいるが、他の医療行為に比べて単位時間当たりの労働の収益としては、この「説明業務」はごくわずかなものである(診療行為に充てた方が遥かに収益になる)。

 話がやや複雑になったが、医療機関に診療システムにおいて、従来このような本来必要である「病状説明」は必要ないものと考えられてきたために、そのための時間を取って他の診療行為に影響が及ばないようにする対策が取られてこなかったのである。それは具体的には「一人当たりの医師が診療する患者数を減らすこと」である。これが先進国比でも日本は多いために、わが国がモデルにしているアメリカ型の医療は成立しないのだ。通常業務時間内に十分な説明を患者側が受けるためには、一人当たりの医療費を増額し、医療機関の医師の数を増やすことがどうしても必要なのである。よく、「時代が変わったのだから、それに対応しない機関はおかしい」という指摘がなされるが、時代に即応するためにはメインテナンスだけでなく、変化に必要な費用は支出しなければならないことを忘れてはならない。「医療の高度化に伴う医師の負担増」に対応するために、先進国の患者一人当たりの医師数は増え続けてきたが、唯一据え置かれてきたのが日本の医師数であり、今になって(そんなことはもう二十年前からわかっていたことなのに、医師数増加=医療費増加と言う図式のもとに、医師数の増加をずっと、いや今でも拒み続けたのが厚労省という組織である)医師が足りないなどとあほなことをほざいているわけである。

 今のシステムを維持するために、従来の権威主義型システム、つまり医者の言うことは絶対であって、患者はそれに異を唱えてはならない、というシステムに復活することは非合理的だし、ソビエト体制と同じでそんなものは維持不能である。筆者は自己決定権は尊重されるべきだと思っているが、多くの場合情報の非対称性(ネットで情報を手に入れることはできても、実際に見たり体験したりしてみないとわからないことは世の中いくらでもある)のために、誤解を抱いたまま自己決定をすることが多いように感じている。それは正されるべき事態であるし、そのためにも十分な説明と、患者側のプロフェッショナリズムへのリスペクトはこれからも維持されるべきだというのが筆者の意見であり、じっさいに自分が患者として他の医療機関にかかったり、弁護士と打ち合わせをしたりするときには、筆者は彼らの専門性を重視し、敬意を払っているつもりである(一度、疑念を抱いたために自己治療をしてしまったことがあるが・・・)。医療者・患者の両方の利益のために病状説明の時間はもっと取られるべきであるし、そのために「病状説明が必要でなかった時代のシステム」は変革されるべきであるし、またそのためにカネは必要がない、という意見は(筆者によれば)決定的に誤りなのである。

2008年08月03日

切開

 右耳が完全閉塞してしまった。外耳の周りが腫れ上がって激痛を伴ったため、仕方なく外耳道の一番外側の膨隆しているところを切開。粥状の物質が驚くほどたくさん排出されてきた。どうやら、粉瘤(ふんりゅう)というありふれた嚢胞のようである。

 きょうは、生まれてからこんなに右耳がよく聞こえたことは皆無、というくらい、閉塞感がない。おそらく、もともと嚢胞によって外耳道狭窄があったところ、その障害が排除されたから、ということだろう。しかし、粉瘤はその袋を残しておく限り、再度増大してくるので、時機を見て手術が必要であろう。

 しかし。

 こんなに耳の閉塞が不快なものとは・・・

2008年11月24日

誰がリスクを負担するのか?

 仕事がらみの話はなるべく書かないという方針できた。もともと"blog"とは、単に日記なのではなく、「ニュースなど主に時事的な話題について、専門的な見地からコメントを述べる」もの、というのがその定義らしいのだが、むしろ筆者は一般の市井の人間として、いささか偏向した政治的な姿勢は持っているものの(笑)、偏ってはいるがさまざまの分野の本を読みながら、それを分析し評価してゆく、ということでやってきた。最近は単に感想に堕している嫌いもないではないが。

 このたび、以下の本の書評を書くにあたって、筆者の仕事における立場を鮮明に出さざるを得なかった。不本意ではあるが、今までもそういう記事が皆無ではなかったので、お許し頂こう。

先日の読了
 仲正昌樹ほか「『先端医療』の落し穴」御茶ノ水書房 ?

 「御茶ノ水書房」といえば、左翼的な傾向を持つ出版社であり、編者がさいきん注目を集めている若手の論客のひとりである仲正氏であるから、ちょっとだけ興味を持って買ってみた。仲正氏は、あの福島の産科事件に対して医師を擁護する大半の医療従事者の意見に反して、検察にも一理ある的な発言をして、全国的に総スカンを食った(笑)金沢大学医学部の打出氏とともに、金沢大の「人体実験事件」に対しても裁判内外で発言をしていることでも知られている。

 本書は、姫路赤十字病院における医療過誤を扱ったものである。事例としては、小児の悪性リンパ腫の治療において、クローズドな研究会が制定したプロトコールを経験のない医師が勝手に使用して、患児を死に至らしめたというもので、被告敗訴という結論およびその過程においては、まったく原告側の言い分は正当であり、何ら問題はない。

 筆者が問題にしたいのは、本書にも登場する、「経験のない医師がはじめての医療行為を行う」という論点である。たまたま、"FACTA"という雑誌にも、防衛医大で心嚢穿刺を行ったところ、心臓を損傷させ、患者が死亡したという件について、遺族が「医師が心嚢穿刺がはじめて行うのだと知っていたら、決して同意しなかった」と語っていたことが載っていた。

 さて、どんなベテランの医師にもはじめての執刀経験というのがある。ということは、ひとりの医師がベテランとなるためには、未熟なうちにかずかずの経験を重ねてゆく必要があるということである。では、「経験が浅い医師は大学病院その他の教育機関において、熟練するまで上級医の指導のもと経験を積むべきである」という一見まっとうに見える結論を出して終わりにしてよいのだろうか。

 論点はふたつある。ひとつは、「ある医療行為に関して、その都度医師は患者に自らの経験と技量について説明する義務を有するのだろうか」ということである。意外に思われるかもしれないが、医療に携わっていて、日々新たな、つまり自分が経験したことのない現象に出あったり、あるいは扱ったことがない疾患にあたったり、あるいは日常的に行っているわけではない医療行為に手を染めざるを得ないことは、ままある。「診療経験二十年、三十年のベテランであれば、そんなことはありえない」と思うのは、単なる妄想であり、現場を知らない素人の考えである。臨床はそんなに簡単なものではないし、教科書に書いてあることをすべて経験できるほど、人の一生は長くないのである。経験できないからこそ、教科書が必要なのである。それを読むことで、他人の経験を疑似体験できるからである。

 そこで、「自分ははじめてだ」ということをいちいち申告して、それに基づいて患者がその医師あるいは医療機関で診療を受けるかどうかを自己決定する、ということは、ある一面では合理的であり、他の一面では現実的ではない。

 そこで、第二の論点である、「ある医師がはじめて行う医療のリスクを誰が負うのか」という問題が発生する。みなベテランに診て欲しいという欲求は共通している。ということは、かりに経験を評価するシステムができたとして、その差別化は医療行為の単価で行われるか、あるいはランダムに割り付けるかされるしかない。つまり、「ベテランによる医療」の値段を高くして、医療費を負担できない貧困層にそのリスクを負担させるか、あるいは有無を言わせず平等に初心者が行う医療行為のリスクを押し付けるか、そのふたつ以外の選択肢はちょっと考えられない。

 従来は、経験の浅い医師は、医療のグレードが高いと考えられている大学病院や大きな市中病院に研修医・レジデントとして存在して、「高度な医療を提供する代わりに、研修医による練習台(というと、ことばは悪いが)になってもらう」というトレードオフが成立していた。しかし、それは今や崩れつつあるし、実際のところ、指導医が脇についていたとして、経験の浅い術者の技量を補うことは出来ない。つまり、指導医がいても、事故は起きる。

 「はじめてだと知っていたらその医師にやらせなかった」という発言は、これだけの深い問題を含んでいる。もちろん、小児がんのような症例が少なく、高度に専門的な治療が必要な領域に際して、患児を分散させずに、少数のセンターに集中させるべき、という主張は正当である。しかし、それと「医療行為に際しては経験の深い浅いによって度合いは異なるが、すべてリスクを含んでいる。そのリスクの度合いについて(経験の深浅について)正確に申告する必要があるのか、そして『経験が浅い』という人的なリスクを誰がどのように負担するのか」という問題については、いまだ未解決であるし、これからも根本的な解決があるようには、筆者には思われない。というのも、それは医師不足という根本的なバックグラウンドの問題だけではなく、「原発をどこに設置するのか」という、生活(=医療行為の提供)について回るリスクの分配、という社会学的な難問であるからである。

2009年06月18日

臓器移植法改正(改悪?)

 あいかわらず、報道は偏向しているようだ。まるで、移植に反対するのが悪であるかのように。

 いうまでもなく、筆者は阿部知子議員が支持しているC案に賛成である。

 こういう事態を想像するちからは、ないのだろうか。

 たとえば、小児科医あるいは小児外科医が、比較的からだの損傷がすくない、頭部の病気を診ているとする。そして、救命可能性が極めて低いけれど、0%ではないとする。多くの場合、救命可能性は0%と言いきることは、むずかしい。

 そこで、医師が、「この児は助かっても、植物状態かそれに近い中枢機能不全になる可能性が高い」と判断したとしよう。

 この場合、医師はどのように動くのが正解なのだろうか。考えるまでもない。医師としての倫理は、「目の前の患児の救命に専念する」ことである。

 しかし、このような選択がなされる可能性がないのだろうか。「植物状態の児をひとり作るよりは、臓器提供によって<<健康な>>児を救うことのほうが、価値の高い生命を残すことができる」と考え、治療をフェードアウトしてしまう可能性が。

 というのは、当然ながら、諦めずに治療を粘れば粘るほど、臓器が損傷してゆく度合いは大きくなる。早々に救命を諦め臓器を温存する方針に切り替えれば、それだけ質の良い臓器が入手できる。

 そして、臓器提供を増やせという社会的な圧力が、医師にそのような「生命の質」のチョイスをさせるような事態にならないとも限らない。いや、高知赤十字病院の事例は、一部で、「脳死からの臓器提供の第一号になりたくて、脳外科的に適切な処置を省かれた」可能性がある、という専門家の意見がある。つまり、そういう事態は、すでに起きている。

 つまり、徹底的に重視されるべきは、ドナーにされようという患者の権利保護であって、移植を受けるレシピエントの利益ではない。

 それを、まずはっきりさせるべきだ。

 救命可能性が低い、あるいは後遺症が残る恐れが高い、ような患者/患児への、適切な(これらの患者の生命を救うための)医療行為がネグレクトされる事態、そういう事態がありえないと考えるならば、その人は医療の現場を、医療従事者の思考を知らなすぎる、善意の悪人である。「質の高い生命は質の低い生命を犠牲にしても尊重されるべきである」という、アメリカにおける倫理的極左(極右?)の議論を、日本に輸入しては、ならない。

2009年08月07日

医師の人権意識

 医療関係者のためのサイト、m3.comで、以下のようなアンケートが行われた。

「女性の医学部入学を制限すべきか?」

 この質問の背景には、女性の医学部・医療への進出によって、結婚後家庭に入って仕事を辞めたり、当直をやらずに九時五時で帰る女医が増えて、医療崩壊の一因になっているという認識がある。

 このアンケートの結果は、医師に限ると、1/3が賛成、というものであった。


 前述の命題が真だと仮定しよう。その場合、みっつの解決法がある。

1)女医を減らす。
2)女医に男性医師と同様の仕事を義務づける(具体的には、卒業にかかった年数の1.5倍は男性と同等の労働条件で働くことを法律で定める、など。)
3)男性も女性と同様の条件で働くようにさせる。それによって生ずる労働時間の不足は医師増加によって補う。実質的には医師間のワーク・シェアリングとなる。

 筆者が力説したいのは、かりに1)が効果的な方策であったとしても、それを採ることは憲法上まかりならぬ、という点である。「法の下での両性の平等」に反する法律・政策は、それがどんなに効果的なものであったとしても採ることはできない、これが近代民主主義の原則である。迂遠であっても、もし女性が育児その他のために短い、あるいは過酷でない労働条件の基でしか働けないとするならば、男性のほうをそれに合わせるのが筋というものである。

 それによって、必然的に医療費は不足し、医師の給与は下がる可能性がある。それにストライキを含めて反対するのが労働者としての医師の権利である。女性医師に法定時間内での勤務を許すために(こちらが本来の労働者としてのあるべきすがたである)、男性医師、あるいは男性と同等の条件で働く女性医師に負担がかかっているのであれば、その負担を取り除くための政治闘争をするのが、結局は男性医師のためにもよいのだと筆者は考える。おかしいのは、女性医師の勤務形態ではなく、男性医師の勤務実態なのである。

 1/3の医師がこの案に賛成したということに、筆者は信じられない思いと共に、日本における民主主義や、両性の平等といった概念が、真の意味では根付いていないことを改めて知る思いがした。戦後民主主義は虚妄なのではなく、死滅しつつあるのである。

 そして、時代はおそらくゆっくりと翼賛体制のほうへ・・・

2009年09月06日

TFCC損傷

 この検索ワードでgoogleと、たくさんのページがひっかかってくる。要点をまとめよう。

・TFCC (Triangular Fibrocartilage Complex, 三角線維軟骨複合体)とは、手の尺骨と月状骨のあいだに横たわる、膝の半月体様の構造物である(本当はもっと広い)。手関節の運動性および支持性向上のために働いている。
・外傷性のものが多い。受傷機転は、転倒して手を突くこと。この時に手が外転していると尺骨頭に力がかかりやすい。
・一度損傷すると血行に乏しいことより極度に治りにくい。
・手の回内回外で疼痛が生じ、尺屈回外テスト陽性、MRIにてTFCCのT2 high intensityを認めるなど、比較的診断は容易だが、整形外科医の認知度が低いこと、「手の外科」医の数不足、そして治療法が確立していないことより、治療難民が溢れている

などだ。

 特に問題なのが、TFCC損傷だけでは説明不能の激痛や脱力を伴うこと。筆者のばあい、あきらかに受傷後の爪の成長が止まっている。左手は切らなくてはならないほど伸びているのに、右手は短いままなのだ。これは、おそらく(想像だが)CRPSを合併することによるのではないだろうか。このページにも、両者の関係が触れられている。TFCCの損傷によって、自律神経に異常が生じやすいのではないだろうか。

 治療は何をみても同じで、三ヶ月間の装具(ギプス)固定。難治性のものには(って、基本難治だと思うのだが)ステロイド局注、三ヶ月の保存療法にて改善がなければ関節鏡下の靭帯縫合/TFCC部分切除などを行うようだ。部分切除で改善することがある、ということは、構造・機能の完全再建はかならずしも必要がないということだろう。疼痛が取れれば、ある程度他の組織が役割を肩代わりしてくれる?

 とりあえず、今は、夜手の置き場がなくて寝られない状態だ。装具をつけていても、手を置く位置によっては、小指の先、尺骨頭から手の背側、そして前腕の尺側側に痛みが出る。これって結構重症っぽい。早くオペしてケリつけてしまいたいのだが!


 というわけで、山にもいけてないし、本も読めていない。おまけに週末はウイルス性胃腸炎(新型インフルかも)で寝ていたし。

 大岡昇平「成城だより(上下)」
 塩野七生「ローマ人の物語 最後の努力(上中下)」「海の都の物語」は読んだが・・・

 

2009年09月07日

手首の思い出

わたしが突いた 右手が痛い

昨日の山の 右手が痛い

ううううう・・・・・

続きを読む "手首の思い出" »

2009年09月09日

TFCC損傷(2)

 右手を使い過ぎたら(サポーターを着けたままだが)痛みが再発したので左手で打っている。


 昨日、筆者の同級生がチーフを勤めている某大学の「手の外科」を受診してきた。卒業以来会っていなかった同級生の診察を受けたが、「尺骨から垂直に伸びている腱が切れている(ulnolunate ligament, 尺骨ー月状骨間靭帯のことだろう)が、TFCC本体は無傷っぽい(MRI上は切れてるっぽいけど)」とのこと。「あと二ヶ月間はいまのサポーターしててください。オペが必要になる可能性は10%以下でしょう」と言われたが、あと二ヶ月鬱・・・きょう右手を使ったらだめっぽいし。

 せっかくなのでTFCC損傷についてまとめようと思ったが、このサイトがあまりにもよく書けているので、その気が失せた。共著者が1981年にTFCC(とその損傷)という概念をいちはやく提唱した第一人者であるA.K.Palmer博士だし、ここを見れば基本的にほかを見る必要はない。希望があれば日本語でまとめますが。

#ほかには以下のサイトの情報量多し

http://r134super.blog88.fc2.com/
http://www.est.hi-ho.ne.jp/takatani/works/sttr/tfcctop.html
http://blog45.neec.ac.jp/archives/51663295.html
http://blog45.neec.ac.jp/archives/51663296.html

2009年09月11日

民族とネイション

 筆者は、タバコを巡る「議論」には興味がない。その理由は、過程はどうあれ、タバコは将来法律で禁止されるか、高額な税金を課せられた上で、路上を含む公的空間での喫煙禁止の方向へ進むのは必然であると考えているからである。要するにその嗜癖性・依存性は覚せい剤や麻薬と同等であり、国家によってパターナリステックに禁止されなくてはならないものである。

 「禁煙ファシズム」という論議は、目的が酒井法子と同等の、薬物中毒者の擁護にある以上は、無効であり有害である。繰り返すが、喫煙者と酒井法子・押尾学は同レベルと筆者は考えている。その他の面では素晴らしい才能や知性を発揮するひとたちが、ひとえにタバコの話になると単なる中毒者となってしまうのは、嘆かわしいというより、人間はあくまで病態薬理的動物であるという厳然たる事実を示すものであろう。筆者は反省なくラリっている人間の相手は、職業上のものであろうとしたくない。イギリスのように医師に喫煙者の治療拒否ができるような時代に早くなって欲しいものである。

 大麻については、許可されるとしても、副作用(大量摂取のためであろう)による犯罪が発生している事実からは、オランダのように政府によって管理されたかたちでのものになるだろうから、あまり面白くはない。

(本件に関してのコメントは受け付けません。あしからず)

最近の読了
 塩川伸明「民族とナショナリズム」岩波新書 C

 あまり集中して読めていないのだが・・・群盲象をなでる印象の本である。もっとも、大著であった大澤真幸の本でさえ、総花的なものであったのだから、仕方ないだろうか。

続きを読む "民族とネイション" »

TFCC損傷(3)

 きょうは調子が悪い。いつもの、尺側〜掌側のしびれ、じんじん感だけではなく、深部に「ぴきっ」という感じの激痛を感ずる。あえていうと骨折のような、「骨に沁みる」痛みである。TFCC損傷では、このような「靭帯の損傷では説明不能の痛み」が生ずるとあるが、blogなどではあまりこのような体験談はない気がする。「回内・回外時の運動時痛」とは、ちがう。

 以前書いたように、これはCRPS(複合局所疼痛症候群)のため、というのが筆者の推測である。CRPS Type Iの疼痛は、手の外傷自体でも生ずるが、"immobilization" つまり手の安静自体でも生ずることになっている。

http://www.shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/pain-crps.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E5%90%88%E6%80%A7%E5%B1%80%E6%89%80%E7%96%BC%E7%97%9B%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4

 治療だが、星状神経ブロックが有効なはずである。ただ、この痛みは神経因性疼痛(neurogenic pain)なので、抗けいれん剤や抗うつ剤が有効なはずである。

 来週、抗けいれん剤のclonazepam(商品名リボトリール)と、抗うつ剤のamoxapine(商品名アモキサン)または milnacipran(商品名トレドミン)を服用して、効果をみたいと思っている。

2009年09月13日

TFCC損傷(4)(冷湿布と温湿布について)

 湿布なんてどうでもいいと思っていたけれど・・・せめて今夜だけは読者のために解説を加えよう。

 冷湿布の主成分は、清涼感を与えるためのL-メントールと、消炎成分であるサリチル酸メチルである(!)。この極論が正しい理由は、実際に「MS冷シップ」などという製品が存在するからだ。最近では、さまざまな非ステロイド系消炎鎮痛剤(NSAIDs)を加えたシップも登場している(というか、そちらが多数派)。

 これに比べて、温湿布とは、トウガラシの主成分であるカプサイシンまたはカプサイシン誘導体であるノニル酸ワニリルアミドを配合した貼付剤である。カプサイシン類化合物は、もともと皮膚の血流増加によって、温感を与える目的にて配合された。

 さて、TFCC損傷による疼痛は、あきらかにその外傷だけでは説明できず、CRPS Type 1の要素を含むと考えられる。そして、CRPSの疼痛に対して、カプサイシンの局所製剤は効果をもたらす可能性がある(一定しないようだ)。日本では、カプサイシンクリームは入手できないから(これは、変形性関節症や関節リウマチなどの関節痛にも有効性が期待できる製剤である)、これらの温湿布が代用できる場合がありうる。と考えて、ノニル酸ワニリルアミドが配合されているフルルバンというシップ剤を貰ってきたのだが、どうも化学物質過敏症の症状が出て、調子が思わしくない。そこで封印していたのだが、この数日の疼痛に耐えかねて、また使ってみた。COX-2 inhibitorであるセレコックスはほとんど効かなかった。

 フルルバン、いいようである。

 CRPSの痛みに温シップは試してみる価値がありそうだ。おそらく、皮膚の知覚神経を興奮させることで薬理作用を発揮しているのだろうから、別に患部に貼らなくてもよさそうである(でもやっぱり尺骨頭から茎状突起部に貼るよね、ふつう・・・)。

 眠れないので、あすリボトリールとアモキサン(トレドミンのほうがよい?)を貰ってくる予定である。眠れないのとやる気が起きないのも、CRPSのせい?

2009年09月23日

TFCC損傷(5)

 受傷後約一ヶ月にして、ようやくCRPS様の疼痛は軽快しつつあるようだが、もとの損傷自体による痛みは不変である。触診上は尺骨茎状突起周囲ではなく、手掌の豆状骨周囲の違和感、疼痛と、特にものを書く時に豆状骨がちょうど机に当るために、尺側のしびれ感がいつまでも続く。

 症状の改善に有効であったと思われるもの
・温シップ(カプサイシン)
・鍼
・ミルナシプラン(トレドミン)
 効いている可能性があったもの
・クロナゼパム(リボトリール)

 ただし、トレドミンは吐気が強い(筆者の場合)。リボトリールはラリってしまうので、半量を寝る前に服用している。

 ようやく、文献を数本読み終わった。1989年のA.K.PalmerらによるTFCC損傷の分類の原著はまだ入手していないが、どうやら2000年に書かれたPalmerらの総説が治療のターニングポイントらしい。また読後まとめてみよう。

 連休中に読んだ本はこんなかんじ。

・ブレヒト「母アンナの子連れ従軍記」
・松本清張「点と線」「砂の器(上下)」「けものみち(上下)」「真贋の森」
・山本周五郎「さぶ」
・筒井康隆「七瀬ふたたび」「家族八景」
・埴谷雄高/北杜夫「難解人間vs躁鬱人間」
・ガッサーン・カナファーニー「太陽の男たち・ハイファに戻って」

2009年09月30日

やっぱり長妻には「政治感覚」がなかった

 「混合診療の禁止は違法」という訴えの控訴審で原告が逆転敗訴という判決がなされた。それに対して、長妻新大臣が「妥当な判決」と述べたらしい。

 この裁判は、患者が「健康保険で認められていない治療を、健康保険で認められる治療と同時に行った(混合診療)場合、すべてが(健康保険認可分も含めて)自費診療となるのは、おかしい」という訴えであった。まず、「健康保険で認められていない先端治療に健康保険を利くようにしてくれ」という訴えではなかったことに留意して欲しい。

 かつ、この裁判の本当の争点は、「混合診療を認めることは倫理的に、また医学的に正しいか」ということではなかった。「混合診療の原則禁止」に法律の明文規定がなかった、ということが問題だったのだ。つまり、健康保険法の厚労省による独自解釈が「法律」扱いをされていた、という現実に対して提起された訴えだったのである。

 言うまでもなく日本は法治国家だ。行政の出す命令や通達は法律の下位のものであり、特に後者は法的な権限はないとされている(違法性を裁判で争うことが可能である)。この点について、大臣は(たぶん)考えることなく追認を出してしまったに等しい。つまり、「官僚による法律の(勝手な)解釈」を許してしまったことになる。これは、官僚ではなく政治家主導の政治(国会は立法府であるから法律による法治政治、ということになろう)を旗印にしている民主党にとっては、致命的な発言である。

 この判決の意味についてよくわからなければ、とりあえず「わからない」と言っておいて、あとでコメントを発表すれば済む話だ。まるで厚労省の役人からレクチャーを受けて、それを鵜呑みにして言ってしまったようなこの大臣の発言は、彼の政治家としての能力と感覚に、大いに疑問を持たせるものである。やっぱり、「年金担当大臣」がいいところで、厚労相はむりだったのではないだろうか。

続きを読む "やっぱり長妻には「政治感覚」がなかった" »

2009年10月03日

TFCC損傷(6)

 文献のまとめ。まだ、ターニングポイントとなる2000年Palmerの論文は未読である。1981年の基本論文と、1989年のTFCC損傷について述べた論文である。

 1981年の論文の骨子は、軟骨成分である三角軟骨およびメニスカス類似体と、その周囲の靭帯成分(遠位橈骨ー尺骨靭帯、尺骨ー月状骨靭帯、月状骨ー三角骨靭帯など)が、解剖学的には一体の構造物であると認められること、機能的にも遠位橈骨ー尺骨関節の安定化、尺骨への重量伝達(手にかかる荷重の20%は尺骨で支えられる)、スムースな回内・回外運動の形成などの役割を、協調して果たしていることより、「三角軟骨線維複合体」(TFCC)と捉えるべきことを説いたものである。この論文をきっかけに、TFCCの機能およびその障害が着目されることになった画期的論文ではあるが、臨床情報はここには含まれていない。ただ、「10代までは損傷はほとんどみられない、60歳を越えるとほぼ100%に変性が認められる」と、加齢あるいは使用による影響を受けやすい組織であることを述べていることに着目すべきである。

 1989年の、引用頻度のきわめて高い論文は、TFCC損傷の分類について述べたものである。この時点ではまだPalmer