わりとさいきん、法曹(検察)志望という有名大学の学生とちょっとだけ話す機会があった。一事で万事を察するのはかなりむりがあるとおもうが、現代の学生気質がこうであるならば、筆者としてはこんごの法曹界にかなりの危惧を感じざるを得ない。
本人の言をしんらいすれば、法曹一家の出だという。父親は著名な検察官らしい。その意を次いで自分も検察官になるのだというのだが、「弁護士はどうですか」と振ってみたところ、「罪のある人間の弁護など絶対にしたくない」という返事。この時点で会話を打ち切った。なぜなら、糾問主義ではなく、弾劾主義を採用している日本国憲法=近代刑事訴訟法学の基本理念をこの人物がまったく理解していないことがわかったからである。
糾問主義とは真実追究主義であり、戦前の日本の刑事システムはこちらを採用していた。これは、裁判官は原告、被告人と共に、犯罪の「真実」を追求する、という考え方である。弾劾主義とは、裁判官はレフリーの役目をし、真実追求は行わない。被告人は無罪であるという仮定から出発して、原告=検察側が有罪を立証しない限り、有罪の判決は出されない。このように、刑事訴訟法においては被告の「無罪推定」は出発点である。先ほどの発言からは、まずこの人物が「有罪の推定」から出発していることが推定される。
さて、世の中にたくさん悪事はある。そして、悪事を行う人間は悪人と考えられている。しかしこの考えは正しいのだろうか? 盗人にも三分の理というが、筆者は世間のすべての人間は犯罪者になる可能性があると考えている。なので、悪を弾劾することとは別の次元で、その罪をどのように裁くかという段になった際に、可能な限り量刑を軽くした、という古代の中国の故事には共感するところがおおきい。
おそろしいのは、自らが絶対に間違わない、正義である、というところから、悪を懲らしめるというヒーロー気取りの法曹人だ。対審の場においては無罪推定が場を支配するが、検察がしごとをはじめるときのスタートラインも決して「被疑者有罪」ではない。「ヤメ検」という用語がある。これは、検察官を辞めたあとに弁護士に転職することであるが、じつは検察官と弁護士のしごとには質的にあまり差はないのである。何がいいたいかというと、仕事の質的な差、というよりも、被疑者(被弁護人)に向かう精神の姿勢はほとんど同じであるといってよい。つまり、よい検察官はよい弁護士になれなければならないのである。筆者が冒頭の人物の姿勢に多いに危惧を覚えたのは、そのことに対する思いがまったくみられなかったことによる。
自分も犯罪を犯すかもしれない弱い人間かもしれない、自分も間違いを犯すかもしれない、自分は正しいと確信しているが、それは自分の思い込みに過ぎないのかもしれない、そういう謙虚な自己省察の出来る人間は、他人に対して寛容な態度をとれるし、また他人の過ちを許せるようになる。弁護士としてだけではなく、筆者が検察官に臨むのは、そのような資質の人物なのであるが、これはあまり適当な意見ではないのであろうか。