
われら、と複数形にしたのは適当ではなかったかもしれない。
われわれは、自分が暮らしている世界の「外」に出ることはできない。なんとなれば、自分の行動に伴って、「外」は拡大してゆくからである。そういう意味で、筆者は常に閉塞感を感じている。
生きようとしても生きられない、そんな閉塞感を打開してくれるツール、それがカメラだったりする、とさいきんおもう。これは「第五」のネタを探そうと街を逍遥していると、見慣れた街がちがった姿で迫ってくる、そんな経験をしたときに「外」へ抜けた、と感ずることがある。
じっさいには、われわれが囚われ人であることをやめることはできないのだろう。「外」へ出ようと思うなら、まず「内」を変革する必要がある。そして、変革のための開かれた討論は、まず他者への愛と尊敬が必要なのだとさいきん思う。サヨク的なきれい事の議論ではない。オマエは在日米軍を愛せるのか、朝鮮総連を愛せるのか、アルカイダを愛せるのか、それが「他者」なのである。
個人の集合としての「団体」に対する態度、感情と、その組織に属するひとりひとりに対する感情は、また違ったものであろう。個人には愛情を持てても総体としての「韓国人」や「中国人」そして「アメリカ人」にはそれができない、というアポリアについては、さらに考えてゆかねばならない。やはり、団体と、個人の集合とは、質的に異なっているのであろう。日本人ひとりひとりが一億人集合したものが「日本」という国ではないように。
昨日の読了 なし
>ポー助さん
>閉塞感を打開
できるかどうかはわかりませんが、少なくとも、世界中が「第五」のネタにしかみえなくなる、という効果はあるとおもわれます。
>山村さん
>「理解する、理解しようと努力する」
だけではだめで、「信じる」ことが必要なのでは、という問題提起をしたのが、「ラディカル・オーラル・ヒストリー」の保苅実氏です。
筆者がどうして「愛」という表現をしたのか? それは、理由があります ^o^
コメント (2)
>閉塞感を打開してくれるツール、それがカメラだったり
>する、とさいきんおもう。
例えば、どんな?閉塞感を打開してくれるのか?
聞いて見たいなあ~~~^^
投稿者: ポー助 | 2006年06月07日 22:32
日時: 2006年06月07日 22:32
愛する、という言葉は定義が難しいと思うけれど。
あるいは、「理解する、理解しようと努力する」っていうのも、一つの解かも。
と思うけど、いかが?
投稿者: スイスの山村 | 2006年06月08日 02:43
日時: 2006年06月08日 02:43