
むかし、筆者が名前を読めなくてあるかたに笑われた、日本を代表する社会学者である。人脈的には、鶴見俊輔の弟子と言えなくもない。
いつか集中的に読書をしようと、かれのほとんどの著書は集めたのだが、まだ読むに至っていない。ギデンズとブルデューも読めていないし、見田の弟子に京大の大澤真幸がいるが、彼の代表作「身体の比較社会学」もまだ手付かずだ。blogやmixiなどやっている暇はないのに。
昨日の読了
見田宗介「社会学入門」岩波新書 B
見田社会学入門として読めばもちろんA。ただ、この本を読んでいると、「社会学って哲学じゃないの?」という疑問が湧いてくるのは仕方がないだろう。つまり、一見精緻な理論体系に見えるのだが、そのほとんどが思弁的に形成されたものなのだ。例えばデュルケームの「自殺論」のように、統計的データの読みで勝負をするような、計量社会学では彼の学問はありえない。そこにまやかしや恣意性を感じる読者もきっといるだろう。
筆者はこの本の以下の文章に「我が意を得た」と感じた。曰く、
「2001年九月十一日の事件のあとのさまざまな論評をきいて、わたしがいちばん驚いたことを率直にいうと、それはだれもが、この事件に驚いている、という事実にたいしてでした。」
筆者もまったく同様に感じた。たしかに邦人の犠牲者を含む(ちなみに、筆者は、海外の事故の報道の時に、「(幸いにして)邦人の犠牲者はありませんでした」などというのが大嫌いだ。犠牲者が邦人であろうとなかろうと関係がないではないか)大事件ではあったが、十分に予期できたことではなかったか。
たしかに二十一世紀の初頭を飾るエポック・メイキングな(というのは、大成功したという意味において)事件ではあったが、むしろ予期できなかったというほうが、鈍感な時代感覚だ、と言われてもしかたがないのではなかろうか。