これもどこかに書いたことの繰り返しのような気がするのだが・・・なので、かなり簡略化して書いてしまった。筆者の議論を以前にお読みになったことがない新しい読者の方には少々不親切な内容かもしれない。
スイスの山村氏へのコメント。
>坂口安吾の特攻隊賛美を半藤一利が評して
>日本は、そんな計画者がその後国会議員になった国なのだった...。
これって誰のことでしょうか。
源田実にしても辻政信にしても、「計画者」ではありませんが。
#大西瀧治郎も黒島亀人も死んだし。
>医療用医薬品を大衆薬に転用したもの=スイッチ薬
これは通常OTC(Over The Counter)と呼ぶ方が一般的です。
>過去30年あまりを考えると、原油高で発展したのは、結局人的資源など、工業化の推進能力を持っていた、資源に乏しい日本とNIES各国だった、という話には、ハッとさせられた。
アマルティア・センの議論と同じだなあ。
そして今そのセンの議論・・・教育に力を入れれば国は発展する・・・に批判の嵐が渦巻いているというのに、少々古いのではないだろうか、という気も。
やはり、「アメリカで十年前に流行した議論を日本に輸入すると受ける」のかも。
>外科医で哲学者の関野吉晴氏が、どこで「死」と定義するかという話を書いていた。
この人の名前は聞いたことがありますが、どういう人物なのかは知りません。
筆者が思うに、
1)細胞学・組織学的死
2)機能的死
3)社会的死
と三つに分類するのが分かりやすい。
立花隆が指摘するように、1)を死の決定とするのは極めて分かりにくい。「脳の細胞が全部死滅した時点」を死と定義するのはあまりにもナンセンス。
2)が今の「脳死」「心臓死」の決定基準となっている。その時に問題となるのは、"point of no return"、つまりどのポイントを超えたら絶対に蘇生しないか、ということ。「死の三徴候」を現し、かつ低体温などの特殊な状況を除外されたものは、「経験的に」復活がないと信じられている。
問題は、「脳死」がPONRなのか、ということである。「脳波の消失」という条件は、「完全に脳波が消える」ということではなく、「通常の脳波計による測定では」というところがポイント。機能的診断だからそれでいいのである。「電極を脳室に差し込んでうんぬん」という議論があるが、それで脳波が確認されても、「機能的死」の診断を下すこと自体はかまわないのである。脳波があっても死んでいる、と診断すること自体は、ある機能が失われたことで死と見なすなら、矛盾はしない。
要は、2)機能死 の判定はむずかしいのである。また、脳が死んでも、心臓が脈打ち、手足が暖かいなら、それを死と認めたくない、という家族の感情は、十分尊重に値するものだ。脳死体を資源とみる見方からはそれは非難されようが、脳死体を「資源」と言い切るその発想に筆者はとても抵抗を感ずる。脳が死んでいても、首から下が機能していれば、それは「機能死」ではない、という議論は十分に正当性があるように思われる。
なので、筆者が主張しているのは3)の社会的機能喪失により死を判定する、という方法である。つまり、死の三徴候が認められ、家族や関係者が間違いなくその患者が亡くなった、ということを(気持ちの上で完全にではなくとも)受け入れられた状態を「死」と判定するのが、実は医療現場でももっとも行われている判定なのである。つまり、心臓が停止してから、近親者が到着するまで、死亡宣告を保留することは一般的だ。それは医学的に言ったらまちがいなのかもしれない。しかし、病院に到着したら「先ほど亡くなられました」とすべてに告げなくてはいけないような時代の到来を国民が望んでいるとは思えないのだが。
>それは、ふだんぼくらが何となく考えているより、世界的にも多様なものなのだった。
そですよ。これに関しては、出口顯「臓器は「商品」か」(講談社現代新書)がお勧め。著者は文化人類学者。
>これを考えても、移植を積極的に推進するのは躊躇われるのだけれど...。
筆者ははっきり臓器移植には反対です。
>「所得と学力の相関を示すレポートは、一方で問題提起となるが、他方で「投資」を煽ることにもなる。」
これも古い議論だなぁ。。。
でも、アルチュセールの「再生産論」がようやく邦訳されたばかりだから、仕方がないのか。