スイスの山村より。
「社会の安全弁」という言葉を聞くと、あの「従軍慰安婦」を思い出す。いまや慰安婦というと、日本軍の専売特許だったというイメージがあるけれども、それはある意味、(こういうことは書きたくないけれども)某隣国たちの宣伝の影響である。アジアの植民地を支配していた英・蘭・仏軍も慰安婦を置いていたし(自国から連れてきたり、現地調達したりしていた。その「白人慰安婦」は、たとえば蘭印を支配していた日本陸軍の将校たちの間では珍重されていたらしい)、進駐軍に対しても、「日本の婦女子の貞操を守るため」という名目で、なんと日本政府が自発的に「慰安婦」を組織していたのだった。そして、その慰安婦を組織したのが、あの笹川良一だったのだ(ダワー「敗北を抱きしめて」より)。
近年はやりの社会構築主義によれば、「性欲というのも社会的に構築されたもの」であって、男性としての、女性としての、「生得的な」欲望というものは存在しないと考えられている。だから、例えばこのような立場を採る上野千鶴子などによれば、「慰安婦やソープなどが必要悪だ、とする男性の考えは、男権優位の社会を反映したものに過ぎない」ということになる。
さあ本当にそうなのだろうか? ここから先は個人的な印象と言うことになるが、日本のCSW(commercial sex worker)を扱ったレポートなどを読む限りにおいては、風俗産業を利用する男性の嗜好は、「抜きにゆく」という、まさに安全弁としての利用法よりも(それだったら、自分ですればいいじゃん、と思うのは、筆者だけだろうか?)、性的接触を含めた何らかの感情的交流を望んでいる、という方向性にある、という印象を受けている。むしろ、「性的弱者」が、料金を支払うことで、はじめから感情的に拒否されてしまう、というリスクを回避した上で、恋人に求めるような「甘え」を買う、という構図になっているようだ。
とすると、スイスの山村氏のいうとおり、日本においても、外国においても、CSWとして働く女性は、一般的には「社会的(経済的)弱者」が多いということは事実であろうから、今風俗の現場で生じている事態は、「社会的弱者である女性が、性的弱者(要するに、もてない)である男性に、感情的癒しを与えるというサービスを提供する場を与えている」ことになる。さらに、今の日本では、そういう場を提供しているのが多くは暴力団であることを考えると、社会の最も弱い層からいわゆるブラック・マネーを搾取しているということになる。
このように考えると、風俗の現場というのは、例えば鷲田清一のような、癒し系の論者がいかに美化しようとも、実にやりきれないものであることが見えてくる。筆者は、スイスの山村氏よりは、性に関しての倫理観はたぶん緩やかであるから、風俗産業を利用すること自体は、それで性的・感情的に満足することができれば、差し支えないと考えている。しかし、問題なのは、通常の出会いでパートナーを得ることのできない「性的弱者」の救済である。話題になった河合香織「セックス・ボランティア」は、障害者の性というテーマを扱っているが、これは実は障害者だけでなく、健常者(ちょっとイヤなことばだ)であったとしても、同様に弱肉強食の恋愛市場において、必然的に敗者とならざるを得ないひとびとに関しても当てはまるはずである。今、経済においても、規制撤廃・自由競争が自明の原理として認知されつつある今(この風潮に関しても、筆者は強く疑念を持っている)、恋愛においてもリバタリアリズム、つまり自由至上主義が当たり前であるとされている。もちろん、筆者はこれには基本的には異を唱えることはしない。ただ、一例を挙げると、「人妻に手を出してはいけません」という倫理観は、基本的に不倫の「背徳感」をたかめ、その喜びを増強するためにつくられたルールだと考えるので、規制撤廃が恋愛の喜びを無条件に大きくする、という楽天的な意見には、強く反対したい。栗本慎一郎が指摘しているように、道徳というのは多くの場合性の興奮を高めるためにつくられたルールだからである。
それとは違った意味で、力ある者が市場を制する恋愛の草刈り場において、必然的に発生する「弱者」を救済するシステムは本当に不要なのだろうか? 現在の「風俗」は、結局性的弱者を搾取するための装置として機能しているわけだから、システムとしては欠陥があるものの、「必要悪」あるいは「安全弁」としての働きがないわけではない。かつての日本、特に農村においては、若年男性の「はけ口」として、後家さんが安全弁としての役割を担っていた、ということがあったらしい。これは女性側からの男性の救済という一方通行のシステムであったように一見みえるが、もちろん後家さんの欲求不満の解消という意味でも有用なものであったであろう。いうまでもないが、ここには金銭の絡んでくる余地はなかった。今の時代、このシステムの復活はもちろん無理だろうけれども、性的弱者同士が公的に認知されたかたちで、お互いの性欲(精神的な意味も含めて)を癒し合うことのできる「場」を新たに設ける、といった、性的福祉政策も必要なのではないだろうか、とも考える。
追記:
断っておくが、筆者が「日本の従軍慰安婦」のみを非難する論調に憤りを感ずるのは、それが日本のみを悪者にし、連合国の罪を隠蔽しようとしているからではない。恰も日本軍のみが従軍慰安婦という「特殊な」システムを利用した、という印象を与えてしまうからである。第二次世界大戦中、(ドイツ・イタリアはよく知らないけれども、少なくともアジア太平洋地域に関しては)連合国も枢軸国もどちらも慰安婦を利用していた。つまり、「軍隊においては、その性的暴力を最小限とする装置は、イデオロギーの違いを問わず、必要であると考えられていた」という重要な事実が隠蔽されてしまうからである。
そして、今回は深追いしなかったが、このドグマは一種のアポリアである。サヨクの中には、「軍隊自体が男性中心的、反リベラルな存在。だから、従軍慰安婦の廃止を求めるよりも、軍隊自体の縮小・撤廃が先」という実にノーテンキな意見を述べる輩がいるが、こういう意見を信用してはならない、と思う。死と隣り合わせにさせられた人間の性欲亢進、性暴力の抑止という問題は、慰安婦以外の方法で解決可能なのだろうか。
>山村さん
>もう少し消化してからまた書くと思う
期待しています。
コメント (1)
そ。そうだと思うよ。
もう少し消化してからまた書くと思う。
投稿者: michiaki01 | 2006年02月05日 18:10
日時: 2006年02月05日 18:10