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モード論は退屈である

 ベック/ギデンズ「再帰的近代化」 を注文したのに、書店から何も言ってこない。入手に失敗した可能性が高いが、連絡が来ないのはどうしてだろう?

昨日の購入 なし

昨日の読了
 仲正昌樹「日本とドイツ 二つの戦後思想」光文社新書 B
 鷲田清一「最後のモード」人文書院 C 「ちぐはぐな身体」ちくま文庫 C 「モードの迷宮」ちくま学術文庫 C

 「日本とドイツ」は仲正氏の本にしては珍しく(?)まとまった本だが、前半の「歴史論争」「国体論争」に比べて、後半の「マルクス」「ポストモダニズム」はちょっとつまらない。というか、マルクスの受容と現代思想論争が、戦後責任とどう関連しているのかが見えにくいとおもしろくないだろう。
 まあ、日本とドイツの戦争処理について手軽に概観するにはよい本だと思う。
 鷲田の「モード」シリーズをぱらぱらめくってみたが、退屈だ。何が退屈かというと、そもそもモードじたいが退屈であるし、モードを哲学者が取り上げた、というだけで肯定的にも否定的にも周りが反応する、その陳腐さも退屈だし、いろいろな社会現象、文化が取り上げられ尽くしたからといって、モードという一見浮ついたものに走るというその発想も退屈だ。また、筆者は「身体論」なるものぜんたいも、また退屈だと考えている。身体論で論じられていることは、スポーツや宗教の修行などのトレーニングを行っているひとにとってはほとんど自明のことだし、そうでなくてもみなが知っていることをわざとらしく考察してみるもの嫌らしい。ようは、モードにせよ身体論にせよ、哲学や思想というものの衰退を象徴するできごとである、ということで、モードを取り上げたというだけで周りが一斉に賛同する、というのは、権力的なものを感じてしかたがない。ここ(12/31)で取り上げたように、「褒めなければいけない」という無言の圧力を感ずるのだ。ああ退屈。

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2006年01月13日 08:12に投稿されたエントリーのページです。

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