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長崎市長、撃たれる

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 衝撃の報だ。本島前市長に続き、二人目とは。

 ちょうど、昨日読了した本が本だけに、意表を突かれた。

昨日の読了
 イアン・ブルマ「戦争の記憶」ちくま学芸文庫 B

 ドイツと日本の戦争責任を扱った書物。ジャーナリスティックな文体で、大変読みやすい。本島市長のことが登場する本としては、ノーマ・フィールド「天皇の逝く国で」(みすず書房)と並び、印象に残る本である。
 一般的には、本書はドイツと日本の国民性のちがいについて述べた本である、と評価されているが、著者は共通点について論じたものである、と主張している。そしてそう読めないのは、いかに読者が先入観に基づいて本を読むかという実例である、と著者は論じているが、やはり筆者にも、本書は「ドイツは戦争責任問題に真摯に取り組んでいるが、日本はそうではない」というメタ・メッセージが透けて見えてしまう。そういう意味では、本書の執筆のもくろみは完全に失敗していると言えよう。

 さて、よく言われることだが、著者も、日本の戦争責任問題の曖昧さには、戦後の天皇の処遇が関係していることを述べている。この件については、深沢七郎の「風流夢譚」事件あたりからはじまり、昭和天皇の危篤時には「自粛」というかたちで、日本国内に完全に定着したと言える。結局、リベラリストが考えたように、アメリカは「民主主義」を日本に導入したわけではなくて、天皇を含めた階級社会をそのまま日本に温存することで、共産主義の防波堤にしようと意図したわけであり、戦争責任問題については極東軍事裁判で決着がついた、というかたちで手を打ちましょう、という玉虫色の決着が、日米ともに都合がよかったわけである。そして、最大の被害国である朝鮮半島や中国に対しての謝罪や補償がおざなりのまま、六十年が過ぎてしまった。

 筆者は、日本においてリベラルな政体・リベラルな政策は、米国の占領(今でも日本は実質的に占領状態にあると筆者は認識している)という桎梏から逃れない限り、あり得ないとも考えている。まず一番に日本がすべきことは、独立を取り戻すことである(同盟国でありつつ政治的な影響力から抜け出すということは極めて難しい選択ではあるが)。

 政治的な独立を確保して、共和制に移行しない限りは、戦争責任など取りようがないだろう、というのが筆者の感想だ。未だに戦前との連続性を保った制度や文化が続いているということは、連続を国民が選択していることにほかならない。戦争責任など、日本は個人はともかく、国全体としては負う気はさらさらないのだ。

>山村さん

 うん、何も言うことはないよ。
 筆者はマルクス主義者ではないけれども、戦前の、天皇を中心とする「階級」を維持することで、日本の治安を維持しよう、というアメリカ(の保守派)と日本(の保守派)の結託は、どうしようもないように思えてくる。

 万国の労働者は団結できないからこそ労働者なんだと思う、きょうこの頃。

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コメント (1)

スイスの山村:

戦後体制の清算を叫ぶ人々の目指すところが、概ね戦前への回帰であって、しかも、占領からの解放も志向していないのは、また、頭が痛い。

そんな状況だから、憲法はじめ、多くの「改革」に、素直に賛成できないのだった...。

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2007年04月18日 00:06に投稿されたエントリーのページです。

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