
「未来予想図II」があるのだから、敗戦記念日IIがあってもいいだろう。
毎年言っていることだが、「終戦記念日」はまがい物のことばであり、「敗戦記念日」と改めるべきだろう。戦争に負けたこの屈辱を忘れず怨みを晴らすことを新たに誓う日とすべきだ(あれ?)。
この時期になると毎年戦争に纏るさまざまな歴史的なイベントが発掘され、蒸し返される。職場の机の上にあった(誰が持って来たんだ?)「産経新聞」には靖国にあるパル博士の顕彰碑のことについて触れてあり、安倍(じゃなかったかもしれない)がパルの遺族と会うという記事があった。
東京裁判についてはもう本当にさまざまなことが言い尽くされており、ほぼ論点は出揃ったとも言えるが、あの東京裁判とは一体何であったのか? そのことについて思うところを書いて見よう。
やはり筆者には、あの裁判の歴史的効用とは、ニュルンベルグ裁判に続く「人道に対する罪」という新概念を提唱したことでないと考える。論理的には、よく指摘されるように、勝者に対する「人道的な罪」は問われないし(そしてその構造は現代にまで射程は及んでおり、つまり超大国アメリカに対してこの罪が問われることは決してない)、「勝者の敗者に対する裁き」の別名にほかならかいからである。
むしろ、「勝者の裁き」であれば、ふたつほど腑に落ちない点がある。ひとつは賠償金を科さなかったこと。これはベルサイユ条約でドイツに法外な賠償金を科し、ナチスの台頭を招いた愚を繰り返さないための深謀遠慮とも取れなくはないが、そうだろうか。もうひとつは、その恣意的な犯罪人の選定である。広田弘毅のように死刑になる必要がなかった人間もいれば、石原莞爾のようにA級戦犯に指名されてもおかしくない人間もいた。大川周明などは、いったい何の罪を犯したというのであろう?
むしろ、筆者には、東京裁判の目的は、日本を裁くことにはなかったのではないか、という気がするのだ。BC級戦犯の判決・処刑が、文字通り「復讐」だったのに比べて。
また、それは次回書こう。
昨日の読了
嘉村礒多「業苦・崖の下」講談社文芸文庫 B
どうしても小説の評価は曖昧になってしまう。評論や論文とちがって、優劣がつけがたいし、どんなつまらない(自分にとって)作品と思えても、後日読むとその評価ががらっと変わってしまうこともあるからだ。
嘉村礒多は葛西善蔵と並んで私小説作家として著名であるが、その作品をじっさいに読んだことがあるかたはそれほどいないのではないか。筆者にとってもこの文芸文庫に収録されているものがはじめてであり、おそらくこれ以上読むことはないであろう。
その内容は、情景や心理描写の文学的な表現を別とすれば、人間の見栄、身勝手さ、嫉み、貧しさ、理不尽な怒りや暴力、家庭不和、不義同棲など、懸命に生きる矮小な人間の実像を描いたものである。ここで、「懸命に」にウェイトを置くか、「矮小な」を強調するかで、嘉村に対する評価は大きく変わってくるように思われる。
個人的には決して好きなタイプの小説ではない。人生はもっと明るいものであって欲しいという希望があるから。しかし、この閉塞感に嵌ってしまうひとがいるのも十分理解できる。あまり文学史的な知識にとらわれず読むのが吉だろう。