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敗戦記念日の翌日II

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 ニュルンベルグ裁判のひとつの目的が、特定の指導者にのみ罪を負わせ、「ドイツ国民はわるくなかった」ということを証明するがため(ドイツ人はベートーヴェンやゲーテを生み出した文化的な国民であり、それがナチスのような狂気を国を挙げて支援するわけがない、という、西欧中心主義的な世界観による)であったことが指摘されているように、東京裁判についてもまったく同じことが言えると思われる。

 日本人にとっての何よりの恩恵は、天皇制が温存され、指導者達が処刑されたことで、そういった体制を作り上げた、あるいは支持した国民の道義的責任が不問に付されたことである。政治家や軍人が「政治的責任」を取らねばならないのは当然のことだが、彼らが日本の指導者となることを、国民は支持したわけだから、当然連帯責任を負うわけである。この連帯責任を戦後の日本人はまともに背負うことを、東京裁判によって免れたように、筆者には思われる。そうして、占領軍にとっては、一部の政治家と軍人を処刑するに留めたことで、従来の構造を破壊せずに温存でき、占領政策をスムーズに進めることができた(現在に至るまでの、軍事基地の租借を都合よく行うことができた、という点において、特に)点で、大変に利益があったわけである。

 しかしここで真剣に考えねばならないことがある。筆者は安易に「責任を負う」と書いてしまったが、戦前の日本軍国主義は本当に悪だったのであろうか? 筆者には、この疑問に本気で答えようと努力したのは、石橋湛山ただひとりであったように思われる。いうまでもなく、「小日本主義」が経済的に成り立つという主張によってである(当時、湛山の言うような貿易立国が可能であったかどうかはかなり怪しげな点もあるが)。植民地を持つことは、ケインズ政策的な意味合いもあるから(公共事業としての)、湛山のように、赤字=無駄、といいきることもできないように思われる。

 ナショナリズム批判をするなら、ナショナリズムがなぜいけないのかをきちんと論証しなければいけないのと同じように(ナショナリズムの批判的研究家の中でこれをきっちりやっているひとはほとんど皆無といってもよい)、日本軍国主義を批判するならば、倫理的にそれがいけないゆえん、そしてalternativeをきちんと呈示しなければならない、と筆者はおもう。

>山村さん

「若者全般に、必要とされている実感が持てない、不遇感が共有されていることが、破壊への衝動や、普遍的な価値観を否定する小共同体への愛着につながっている。
 他者との直接の関係を通じて、若者たちに生の実感を持たせるアイディアが必要だ」

 このコメントには、次のことが暗黙に前提とされています。筆者的には、それは卑怯だとおもいます。

1)若者がナショナリズムに没入することは(それが大澤の指摘するように、アイロニカルなものであったとしても)よくない、破壊的なことだ
2)若者に生の実感を持たせることにより、ナショナリズム離れを促すことは、よい結果をもたらす

 というのは、今の若者のナショナリズムへのコミットメントはいいことだ、と捉える一派も存在し、それが社会的に確立された、ひとつのムーブメントとなっているからです(このワシントンポストへの広告みたいに)。
 そんなご時世に、「ナショナリズムは悪である。若者をそこから遠ざけるべきである」という決めつけは、少なくとも筆者にはまったく説得力を持ちません。

 あと、この写真ですか? これは賽の河原 ^^;

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コメント (1)

スイスの山村:

いけない、と論証する必要は必ずしもないように思う。
僕はやはり、そういう世の中に暮らしたくないな、というのが、僕の答えだけど。(僕のところにも書いたけど)

ところで、最近の写真、どこなんでしょ?

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2007年08月16日 22:08に投稿されたエントリーのページです。

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