昨日注文していたRSDA202が届いた。「手のひらサイズ」というのはわかっていたのだが、本当に小さい! これでちゃちなスピーカーだけでなく、れっきとしたHi-Fiスピーカーも鳴らせるらしい。
その秘密(というほどでもないのだろうが)は、その増幅(amplify)の方式による。平たくいえば、このアンプはアナログ信号をいったんデジタル化(PWM)し、その矩形波パルスをひじょうに高効率に(つまり投入した電力に比べて得られる出力が大きいということ)増幅し、またアナログ化するというものだ。つまりA/D変換を行い、増幅されたデジタル信号をもう一度D/A変換するということになる。
当然、D/Aコンバーターが未熟な時代の、この方式の増幅器の性能は極めて悪かったという。このデジタル時代において、リニアにA/D, D/A変換を行う優秀なICができて、このD級という方式は脚光を浴びるようになった。
しかし、このアンプで使われているIC, TA2020は、カリフォルニア州サン・ホセにあるTripath社で製造された(現在は後継のチップが出て製造中止となっている)ものである。日本の製品ではないのね。。。
昨日の読了
大岡昇平「幼年」講談社文芸文庫 B
ほんとうにこの人は「最後の文豪」と呼ぶにふさわしい。「文豪」ということばをどういう作家に使うかは、ある程度コンセンサスが得られているのではないだろうか。たとえば、漱石・鴎外のふたり以外には、谷崎や川端、それに志賀直哉くらいにしかこの称号は冠しえまい。芥川や三島などはその作品の質量は申し分なくとも(もっと直截な例を挙げれば大宰と坂口安吾のふたりが典型だろう)「文豪」という表現をすることは少ないのではないだろうか。
「文豪」は、まず多作であることが求められる。寡作の作家を文豪と呼ぶことはない。なぜなら「豪」とは「えらく」「さかん」という意味であるから。さらに、その文章にも「品格」が求められる。論理を追求した近代的な文体であるだけではだめで、日本の文芸の伝統に棹さした典雅さが求められるといってよいだろう。漱石と鴎外はこのふたつの条件を完璧に満たすが、筆者の感覚では次には谷崎が来るように思われる。
大岡はこの系列のおそらく最後の作家である。スタンダールに傾倒した彼は、その心理描写を学びつつ、特に風景の描写にその才能を発揮したように筆者には思われる。「俘虜記」や「レイテ戦記」における戦場風景の描写にはすでに定評があるが、「武蔵野夫人」における、当時においてもう滅びつつあった古き武蔵野の面影を写し取ったその描写力には本当に感嘆させられる。本作品においても、著者が育った、まだ江戸のたたずまいを残した東京市の情景の描写はとても巧みなものであり、その情緒は雅びやかですらある。筆者が彼を「最後の文豪」と考えるゆえんである。