
丹沢山塊において、その最高峰である蛭ヶ岳(1673m)を中心に、北に向かう山稜を主脈、西の桧洞丸へ向かう山陵を主稜と称する。そして、主なピークである塔ノ岳(1491m)、丹沢山(1567m)、蛭ヶ岳から主脈方面に姫次、黍殻山、焼山、そして神奈川県の道志川沿いの集落である青根に出る主脈ルートが、丹沢を縦断するコースとなる。こんかいは、交通機関の関係上、青根の焼山登山口バス停から焼山、黍殻山、姫次、蛭ヶ岳という逆コースで日帰りを試みてみた。
神奈川県橋本から三ヶ木行きバスに乗り込み(このバスがほぼ満員だったのには意表を突かれた。津久井湖の周りに高校や日赤病院などもあるから、通勤用として結構有用な路線なのだ)、三ヶ木から月夜野行きバスに乗り換えて焼山バス停に到着するのがほぼ8:00である。ここから八時間の踏破で16:00には塔ノ岳の下山/登山口である大倉バス停に着けばいいと思っていたのだが。
今回は一足1.3kgのGORO製革靴ではなく、Caravanの軽登山靴で臨んだ。軽い。足を運ぶと少々足元が(橋下がじゃなくて)頼りなく感ずるが、これなら長征(江西省から陝西省まで歩いたわけではないけれど)に耐えられそうだ。
で、急ぎ過ぎたのか、登山口から蛭ヶ岳まで四時間で着いてしまった。このあいだ、黍殻山から姫次までのあいだ、黄色く尾が異様に長い鳥が飛んで逃げてゆくのを見た。あれは天然のキジにちがいなかろう。丹沢にはまだそんな生物も生息しているのだ。しかし、蛭ヶ岳を過ぎてそこから地獄がはじまる。次の丹沢山まで一時間半、そして塔ノ岳まで一時間とコースタイム通り。おかしい。
そして、塔ノ岳からのあの悪名高い大倉尾根の下りでついに死んでしまった。足が前に進まないのだ。より正確にいえば、登りはなんなく進むのだが、下りが延びない。十五分くらい毎にベンチがおいてあるので、そこで何度となく休むのだが、ついにはいわゆる「膝が笑う」状態になってしまった。以前こうなったときは、脱水が原因と思われたのだが、こんかいは十分水分補給はしている。となると、筋肉の疲労そのものが原因のようだ。
で、やっとの思いで下山したのだが、通常筆者の足で一時間半、コースタイム二時間のところ、二時間半ちかくかかってやっとの思いで山を降りた。
原因は、何だったのか。それは大腿四頭筋のトレーニング不足にある。登山の時は、四頭筋は短縮性収縮、つまり短くなりながら収縮するわけで、四頭筋にかかる負担はすくない替わりに心肺負荷がかかる。下山の時には低所へ移動するために心肺負荷はすくないが、四頭筋は伸張性収縮、つまりぴんと張りながら負荷を吸収する必要があるために、筋への負荷は比較にならないくらい大きいのである。ということは、もっと筋力トレーニングが必要! というところに落ち着いた。大倉尾根のような階段が多く、傾斜が急な尾根は、トレーニング用としては最適なのである。
読了した本
ピエール・ブルデュー「ディスタンクシオン(I)(II)」藤原書店 S
ハリー・ハルトゥーニアン「近代による超克(上)(下)」岩波書店 S
花崎皋平「静かな大地―松浦武四郎とアイヌ民族」岩波現代文庫 B
ちょっと甘いが、S評価をふたつ出してみた。
まずブルデューから。本書は、ブルデューの主著と考えられている本であり、筆者のS評価はブルデュー理論に対する評価だと考えていただきたい。本書自体は、典型的な「結論決め打ち型」の本である。つまり、ブルデューの言いたいことが先にありきで、そのためにさまざまなデータが(言い訳のように)引用されているという体裁の本だ。そこに読者は抵抗を感ずるかもしれない。
本書のテーマは、階級(階層)と資本の関係である。まずブルデューは、「資本」には金銭以外の側面があることに着目する。一般的にはそれは「学歴」も含めた「教育」であると考えがちで、そしてその意見には大方の賛同が得られるだろうが、ブルデューの作り出した造語は「文化資本」という言葉であった。これは、教育資本を含むと考えることもできる。一方でブルデューは、マックス・ヴェーバーいうところの「エートス」、つまり人生に臨む心的態度を「ハビトゥス」と名付ける。ハビトゥスが一致した相手とは、よき理解者や伴侶となれる率が高いということになるが、そのハビトゥスは文化資本と密接な関係があるのだ。そして、その文化資本をどれほどどのくらい持っているかということが、実際の金銭的な資本と併せて、ある階層の性質を決定的にするというのが彼の主張である。
さらに彼は、文化とは「ディスタンクシオン」、つまり他人あるいは他の階級との「差異」をあきらかにするために使用されていると主張する。ことばを替えていうならば、文化は支配階級の再生産のための道具だということになる。そして、一般的に「高級」とか「趣味がよい」とされる文化(たとえばバッハなどに代表される、通俗的でないクラシック音楽や、画家でいうならばピカソなどがそれに当たる)は、「高級な文化であり、高級な文化を解する人間は文化的に洗練されている」という「言説」(フーコー)のもとに、文化そのものとしてだけではなく、階級を聖別し、ヒエラルキーを維持するための権力装置としても作動する、というのである。
かなり極端なみかただ。そして、その発想は、ブルデューが大学へ入学したときのショックに端を発するということである。しかし、筆者はさまざなま意味でこのブルデューの主張には強く共感している。それは、筆者自らが大学へ入学したときに、周りの同級生と比べて自らの「文化資本」のなさに愕然とした経験であり(たとえば筆者には高校での留学経験も、海外旅行体験も、演奏できる楽器も、ウィンター・マリンスポーツの経験もなかった)、また往々にして独創的で革命的な意見は極端なものから生まれるという確信である。
差異(ディスタンクシオン)とは、(当時の)現代思想におけるキーワードのひとつであるが、現代日本においてもこのみかたは以前として光彩を放っている、というのが筆者の見解である。
次にハルトゥーニアンの著書に移ろう。筆者はもともとこの「近代の超克」プロジェクトには関心があった。これは1942年に「文学界」が主催した座談会である。この座談会の目的は、日支事変から太平洋戦争に至る日本の戦争目的をはっきりさせると同時に、明治維新後の日本の近代化によって、日本の伝統的な文化や生活が風化し、資本主義社会の基にマスプロ的な生活習慣がはびこることで、その破壊力に危機意識を持った学者や文化人があまた存在し、それに回答を与えたいというところにもあった。
本書はその座談会に参加した中心人物の思想的な営為を深く掘り下げたものであり、結果的にすべての人間がファシズムに傾斜してゆかざるを得なくなった経緯を説明している。
これで本の要約は終了してしまうが、そこで投げかけられる疑問は実に巨大である。まず、著者は「資本主義という前提には手を触れずにその影響だけを排除/変更しようとした試みはすべて失敗している」と書いている(と筆者には思われる)が、それならばこの「近代の超克」プロジェクトは、現代においても完成していないプロジェクトではないだろうか、ということが一点。さらに、これだけ優れた知性がファシズムに傾斜したことは、他の解決策はあるのだろうか、という疑問に繋がってゆくし、さらに「ファシズムは本当に悪い政体なのだろうか?」という根源的な疑問へゆきつかざるを得ない。つまり、われわれはファシズムは自由を抑圧するゆえによくない政治制度だということを前提にされているが、それは日本が軍国主義となって他国を侵略したとか(英米仏もやっている!)ドイツがホロコーストを起こしたという結果から善悪を判断しているだけで、他国に戦争をしかけない、あるいはジェノサイドを行わないという仮定において、実は優れた制度だということを否定できるだろうか、という疑問である。
資本主義と民族文化、あるいは民族文化同士の関係について、深い洞察を誘う本であるように、筆者には思われる。
さて、この二冊に比べると、花崎氏の本は若干軽いように思われるが、そんなこともない。本書も、日本人がアイヌ民族をどのように扱ってきたのか、そしてそれが現在の北海道およびアイヌ政策にどのように関係しているのか、ということを問う本である。
著者の真摯さは疑うべくもないが、高橋和巳的な、あまりに左翼リベラル的な政治姿勢に、ちょっと筆者は息苦しさを感じなくもないのであった。