GWの最終日、いろいろ検討した揚げ句、「ひとに出会わなそうな山」ということで、南大菩薩の源次郎岳にした。アプローチは塩山の駅から直接である。
あずさ3号で塩山まで。遅い朝出である。塩山駅前で、バス停に並ぶ大量の登山客を目撃するが、どうなら西沢渓谷へ行くひとびとのようだ。
車道はブドウ畑の中を登ってゆくが、途中で地元のおじさんに「どこ行くの?源次郎?」と尋ねられる。そうだと答えると、「だいたい四時間くらいだな」とのこと。地形図をみるからに、小さな上り下りが多そうで、いちおう五時間を見込んでいた。手持ちの登山地図ではそうなっている。
車道が終了し、登山道に入る。当然道標などはない。入口のところ、ちょっとした展望台になっていて、南アがきれいにみえる。

地図からこの道で正しいだろうと確認。少々小枝やヤブがうるさいが、道はしっかりしており、とても踏み跡とは言えない。立派な登山道である。途中で北のほうからの道と合流、そこから先はヤブもほとんどなくなるが、かなり傾斜が急な登りとなる。そこからほどなくして恩若ノ峰である。ここで少々休憩。

そこからは明瞭な登山道となる。ほとんど迷うところはない・・・はずだが、恩若ノ峰の手前の指導標を見落とし、北側の尾根に入ってしまう。地図を確認すると、北へ向かうルートは存在しないはずである。強引に西側の尾根に降りてゆくと、そこに登山道があり、一安心。そこから後は迷う場所はありえない。
しかし、途中で地形図のどこを歩いているのか確認ができなくなってしまった。急な登りがあるはずなのに出てこなかったり、ある地点からほとんど下りがなくなるはずなのに、いつまでも登りと下りが続いていたり、で、方向は正しいことはまちがいないとしても、現在地点を見失ってしまった。今考えれば、これは地形図上の登山道を信用したためであろう。登山道は尾根に沿っているが、微妙に尾根を巻いていることが多いために(だから印象と比べてずっと楽な行程だった)上り下りが地形図と合わないのだ。
で、突然平らな地点に差しかかる。「源次郎平」とあり、源次郎岳が眼前に望める。え・・・こんな早い時間に着くはずじゃなかったのに。


ここから先は一気の登りである。かなり急。ほぼ1時間ほど、駅から四時間ちょっとで到着した。予想よりもかなり早い到着である。しかし、恐ろしいことに、こんな地味なコースなのに(途中展望はほとんどない)すでに二組の登山者に出会っている。あなどるべからずGW。

ここからは日川尾根に出るところまでじゃっかん登りあり(ここで三組目の登山者に会う)、日川尾根に出たところが小ピークになっている。あれ? ここから北に抜ける尾根道があるはずなのだが・・その小ピークの尾根は東西に延びている。東の尾根には踏み跡すらない。しかたがないので西に向かい50mほど歩くと、そこから北に向かう尾根があり、指導標があった。
そこからほぼ真北に向かい、しばらくすると北東の方向へずっと道(踏み跡とは言えない)は続いている。ほどなく林道に出会う。ここで、四組目の登山者に出会う。こんな遅い時間から源次郎岳に登るのは、帰りが辛かろうに・・・まあ、塩山の駅に直接出れるから、中央線の終電までに駅に着けば、理屈の上では帰宅可能だが。
筆者が持っているガイドブック(もう二十年ほど前のものだ)によれば、この日川林道から焼山沢真木林道の嵯峨塩館(鉱泉宿)に抜ける道が踏み跡同然でひじょうにわかりにくいとのことだが、指導標もあったし、道も明瞭で迷いようがないものであった。で、嵯峨塩館に到着。風情ある旅館だ。左に見えるのが日川林道への登山道。

この時点で14:30である。ここから一時間ほど歩くと、甲州市営のバスのある天目バス停に着く。そこから16:28に甲斐大和駅行きのバスがあるはずであった。
ところが、バスがない。次発は17:06である(唖然)。しかも、ここには公衆電話がなく、携帯の電波も通じない。けっきょく、甲斐大和駅まで二時間で走破し、予定よりも一本早い(もし16:28のバスがあるとして)電車に乗ることができた。
いま、この原稿を書くために、あらためて甲州市のホームページを見ると、バス時刻が訂正されている。きっと、筆者らと同じように、バスがなくて困った誰かが甲州市に苦情を言ったのであろう。4月1日からバス時刻が変更になったのなら、GW前にちゃんと更新しようね>甲州市。
昨日の読了
現代思想誌3月号「患者学」 ?
例によって、社会学の研究者たちにとって格好の題材であるALS(筋萎縮性側索硬化症)という、病気全体のなかではごく少ないパーセントを占める神経難病が不釣り合いに考察の対象となっていることは、もうこの雑誌のスタンスから読む前にわかっていることではある。
が、、、筆者がおもうに、医療はひっきょう国民が「どのくらいのコストを費やしてもいいのか」ということに、ある程度のコンセンサスが生じて、はじめて政策的に成り立つものである。「弱者、高齢者切り捨て」というが、ではそのような弱者、高齢者を救済するために、なんぼのコストがかかって、そのコストをどうやって調達するのか、それは共産党がいうように、防衛費や「思いやり予算」を削って実現可能ではなく(そのためにはまず日本がアメリカから独立しなければならないが、それを実行に移すだけの度胸と成算がどの政党にもあるとは思えない)、消費税のような間接税を増税することで賄うことが妥当であると思われる。すると、今の日本の医療制度の長所である、抜群のコスト・パフォーマンス(WHO認定第1位)が失われ、北欧型の高負担・高福祉国家へ近づくことになる。
つまり、現在の日本は、医療に関しては新自由主義、あるいはリバタリアン国家なのであり、そのローコストを支えているのが、人件費の安さ(医師も安いが、それ以上にパラメディカルの給与が国際比較でべらぼうに安い)なのだ。若いときに税負担が軽く、自由な生活が送れるなら、そのツケは老後に回ってくる勘定になる。それはそれでひとつの国家の方針としてあってよい。要は、良質のサービスは安価では買えない、その当たり前のことが理解できるかであろう。
そういった筆者のスタンスからすれば、「患者学」で唱えられているさまざまな試みは、けっきょく物的・人的資源を消費することになる、というみかたをせざるを得ない。すると、医療資源は有限であるからして(それは高負担社会になっても同じことだ)、結局は資源のうばいあいという結果を招くことになる。つまり、適切な資源配分の問題というところに帰着してしまうような気がしてならない。資源配分の問題であれば、救急救命におけるトリアージ、救命可能性があるところに資源を重点配分する、というように、何かの基準を持ってその配分を決めなければならない。ALSはすでに難病に指定されており、また疾患が特殊であるだけに注目されやすく、行政的には優遇されている疾患である、というのが筆者の認識だ。難病に指定されていない難病、患者数がすくなかったり、すぐ死んでしまったりして患者会が政治的な力を発揮し得ないような、そんな疾患の患者は、注目度がひくいだけにより必要な資源が配分されていない可能性がある。そういう可能性を見落とした議論は、やはり筆者には納得できないのだ。