登山というのはきりがないスポーツである。それは、難易度とお金(歩くだけでカネのかからないスポーツというイメージがあるが・・・)の両面でそうなのである。
春秋の里山を散策するだけならどうということはなくとも、だんだんとまず体力的にハードなところへも行ってみたくなる。奥多摩や丹沢なら雲取や表尾根などがそれに当たる。すると、天気が良く空気が澄んで眺望のよい冬にも行ってみたくなる。少しはスリルのある岩陵も登ってみたくなる。登山道のはっきりしないバリエーションコースに、地図を片手に行ってみたくなる。といったように、キリがなくなるのだ。そして最後は冬の一ノ倉で滑落死ということになる(大げさ)。
自分で一定のところで線を引くという作業がどこかで必要になってくるように思われる。筆者の場合は、取りあえず「一泊が必要なところへは行かない」というのが事実上の歯止めとなっているのだが、「安全登山のためにザイルが必要」という主張は、そもそも安全でない山にいくことが前提となっているから、技術が伴えばそれだけ危険度の高い山行を選ぶことになるのは分かり切っている。原子力が開発されれば必然的に爆弾に応用されるのと同じ理屈だ。
というわけで、「岩場を安全に歩くため」にボルダリングジムを初体験してみたのだが、はじめから岩場へ行かない方が賢明な選択肢であることは言うまでもない。
はじめて行ったボルダリングジムは女性の比率が高く、びっくり。それもあるが、道具を使わないボルダリングであっても、誰かと行ったほうが楽しいのだ。ましてや、パートナーによるザイル確保を前提としたロープ・クライミングでは(これもやった)誰か友人と一緒に行かない限りできないのだ。
結構岩場は歩いてきたはずなのだが、いちばんやさしい課題で墜落してしまったのは結構ショックだった。これまでの歩き方を反省しなければならないのかも。あとは、自宅あるいはジムでの筋トレも必須だろう(ボルダリングは必ずしも筋力第一のスポーツではないが)。
最近の読了
サミール・オカーシャ 「一冊でわかる科学哲学」岩波書店 B
例によってこのオックスフォード出版の翻訳物は質が高い。日本で言うと岩波新書みたいなものだろうが、最近の新書は粗製乱造の気味があるのに対し(たとえば最上俊樹氏の本のように、高いクオリティを保っているものもあるが)、このシリーズのほうが全体としての質は上であろう。
ポパーの「反証可能性」やクーンの「パラダイム」、そしてアラン・ソーカルが提起した「サイエンス・ウォーズ」まで、歴史的なことも押さえているし、科学哲学が何を対象にしているのかをコンパクトにまとめている。
ただし。
読了してなおかつ筆者は、「科学哲学は何の役に立つのだろう?」という思いを禁じえない。
歴史的にみて、あるテクノロジーが発明されてしまうと、その倫理性は省みられることなく、かならず誰かが臨床応用してしまう。もちろん、これは倫理の問題で、科学哲学が問題にする、正当性の問題とか、観察可能性の問題とかとは異なるわけであるが、そもそもが知的遊戯のひとつである科学について、さらにその哲学性について検討するという学問は、知的遊戯を山車にして遊んでいるわけで、やはり筆者はさらなるむなしさを感じてしまう。せめて、先に挙げた科学の臨床応用の倫理性についての歯止めをかけるような正の作用があってくれたらいいのだが。