エミール・ゾラの小説のことではない。
昨日、赤坂SACASの「マキシム・ド・パリ」で食事をしたあと、近くのドイツ居酒屋に入り直したときの話。
隣のテーブルの会社員らしきグループが、秋葉原大量殺人についていろいろと話をしていた。「まちがいなく死刑」だということで結論は一致していたようだが、とんでもない、ああいう殺人ができるのは精神鑑定の結果をみるまでもなく、統合失調症またはそれに類する病気であろう。彼が入るのは刑務所ではなく病院であろう。しかし、だからといって「統合失調症は危険」なわけではない。統計的には、一般人よりも殺人を犯す率はすくないと言われている。彼らの中で暮らす方が、ふつうの日常生活を送るよりも殺される確率は低いのである。
で、さらに話は「死刑」に進んでゆくわけだが、筆者は前にも書いたかもしれないが、亀井静香と同じく死刑廃止に賛成である。その理由は、死刑が野蛮な制度であると思うからでもないし、死刑廃止論者が大きな理由として挙げる「死刑には重大犯罪への抑止効果はない」からでもない。端的に、司法が信頼できないとおもうからである。
麻原オウム事件にしても、われわれは間接的に報道を通じて知っているに過ぎない。そしてその報道の内容が偏向していないという保証もない。にもかかわらず、多くの日本人はテレビや新聞で報道されているニュースの内容は正確であることが保証されていると漫然と考えており、その報道に基づいて事件の真実を認定することを不思議には思わないようである。ボードリヤールの「湾岸戦争はなかった」ではないが、伝聞に基づく事実認定は極めて危険であり、その危険は裁判員制度で解消できる性質のものではない。逆に、裁判員制度の導入は、偏った報道による誤判の危険性を増すばかりであろう。
おそらく、誤判はまちがいなく一定の確率で起こり、冤罪をかぶせられた人間あるいは国家が冤罪をかぶせたい人間が死刑に処されることが生じているはずである。無期懲役でその誤判の罪は消えないが、生命を奪うことは決して許されない。「遺族の感情」に留意するという名目で、その割合すら不明確な冤罪者の生命を奪う危険が穴埋めできるはずはない。「無期懲役では遺族は納得できないでしょう」というような、感情的な議論で、行為責任を問えない人間を有罪にしたり、死刑制度を存続させておくということは、到底筆者には容認できない。さまざまな問題について、感情的でない議論ができるよう、しっかり教育をしていただきたいものである。
先日の購入
ギュンター・グラス「玉ネギの皮をむきながら」集英社
自伝だそうです。
先日の読了
子安宣邦「近代の超克とは何か」青土社 B
竹内好に関心のある筆者としては、彼が取り組んだこの「近代の超克」という思想についての研究書には同じく関心を持っているし、靖国問題などへの子安氏の説得力ある論説には共感するところもあり、買ってみた。扱われている内容は主に京都学派、日本浪漫派、そして竹内好の思想が中心である。
この「近代の超克」という古びたテーマを再考しなければならない理由は、この現代が帝国主義の時代の延長である、という認識に因っている。つまりその認識に同意ができなければ、そもそもそのような、竹内が抱いたような問題意識は共有しえまい。そして、竹内が考えたような「方法としてのアジア」という発想も共感しえまい。
最終的に著者は、イヴァン・イリイチの「平和の輸出とは戦争の輸出である」という、パックス・ロマーナの延長線上にあり、しかもイラク戦に象徴されるようなテーゼから、方法としてのアジア、つまり西洋が東洋(というより、資本主義における周辺国)の軍事的・経済的な征服によって得た自己認識である「西洋」を超克する手段のヒントとして、最終的には日本国憲法の「不戦思想」がその出発点として据えられるべきだ、というかなりの論理の飛躍を敢えてしている。ただ、これはミシェル・フーコー説くところの「言説」説によって再解釈しなおせば、先日観たヒロシマを訪れたアメリカ人学生らが「核廃絶は可能か」という議論を帰国後行ったドキュメントの中の風景を参照することで理解可能である。そこでは、「アメリカから核をなくせば、どこかの国から攻撃されるかもしれない」という意見が出ていたのだ。
これが非現実的な意見であることは誰でもわかる。核を放棄したところで圧倒的な通常兵器による軍事力を誇る(各種新型爆弾は核兵器の威力を上回るものもある)アメリカが他国に侵略されることはありえない。もちろん核戦争になっても通常兵器で十分報復は可能であるように思われる。その可能性についての客観的な事実よりも、「攻撃されるかもしれない」という根拠なき恐れが核兵器の廃絶に関して障害になっている可能性はある。
また、「核兵器を持っている国が大国である」という象徴的な保有の効果についても考える必要がある。どちらかというと、こんにちの核兵器は、インド・パキスタン間などの緊迫した関係を除いて、象徴的価値をもつものと捉えてよいように思われる。そしてこのような象徴的な価値は、「核兵器を持つことは野蛮国家の象徴だ」というパラダイム変換が起きれば、なくせる可能性がある。おそらく、日本国憲法は、不戦というパラダイム変換のためのひとつの言説として存在価値がある。そういう主張なのであろう。