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感染地図、日本の橋&人間の本性

 そういえば、ここはもともとamazonに書いていた書評の検閲がイヤになってはじめたサイトのようなものだった。初心に帰ってさいきん読んだ本を纏めてみよう。

 忘れないうちに書いておくが、子安宣邦「近代の超克とは何か」でひっかかっていたこと。著者は、竹内好の「大東亜戦争は、アジアに対しては侵略戦争で、ABDに対しては帝国主義同士のぶつかり合いであり、異なるふたつの性質を持っていた」という説を否定している。その理由として、そのふたつを明確に分けることはできないこと(ABDの植民地への戦争は、現地住民にとってみれば新たな侵略戦争いがいの何ものでもないこと)、分けることで侵略戦争に対する正当化の口実を与えてしまうことを挙げている。そこから唐突に「アジアという方法は、憲法第九条を残すところからはじまる」という結論で終わるのだが、結局、アメリカの植民地であり続けるという現状(これは酒井直樹も指摘しているように、否定しようがない)がまずいのは、結局そのこと自体が十五年戦争(大東亜戦争)を徹底的に反省していないことの明瞭なあらわれではないのか、というところに行き当たったのである。

 つまり、日本がアメリカから独立すること、ここから戦争責任を取るという未来に向けての反省およびアジア諸国との関係の再構築がはじまるのではないか、ということだ。アメリカの属国であり続けることによって、日本は経済的に発展を遂げたが、そのことは東南アジアを従属理論でいうところの周辺国化することによって成功したという側面もある。日本のODAは現在でもひも付きが多いからだ。要するに、やはりわれわれはほんとうに戦争を反省したとはいえないのであろう。


最近の読了
 スティーヴン・ジョンソン「感染地図」河出書房新社 B
 保田與重郎「改版 日本の橋」新学社 A
 E.O.ウィルソン「人間の本性」ちくま学芸文庫 A

 「感染地図」、昨今の新型インフルエンザへの関心も相俟って、また新聞に取りあげられたこともあり、話題の本らしい。本書を読んで気付いたのは、たとえば先日読んでいた「近代の超克」のような本と違って、快適に読み飛ばせる。読書の快感のひとつはページをめくるスピードだから、こういう本は読んでいて気持ちがよい。かといって、ちょっと古いが赤川次郎の小説のように、読み飛ばしたあとには何も残っていなかった、というようなのは、ちょっとむなしいのだが。
 さいわい本書にそのような心配はない。「病気は悪い空気=瘴気によって起きる」という当時の支配的な説を、どのように二人の優れた人間が覆したかというストーリーであるのだが、これは医療ものというよりは、ビジネスものとして、あるいは人間の気質にかんするひとつの逸話として、さまざまな考察の材料になりそうである。そういう意味で、かかる時間当たりのパーフォーマンスは高い本だと思うので、一読して決してソンはない。

 保田の代表作「日本の橋」、これは何というか、日本浪漫派とはどういうものかを知るために読むような本であり、これによって保田に惹かれるかどうかはその読んだ個人の問題である。よく指摘されるが、この本での「橋」を巡る保田の考察は迷路を辿るようであり、また文章の論理は順接であるものの、よく読むと結論は逆説=アイロニックであり、一筋縄ではいかない文章である。
 ただ、戦後保田ひとりが文学者として戦争責任を負わされ、公職追放の目に遭った、というのは、何か違うような気がする。橋川文三の「日本浪漫派批判序説」に詳細に分析がなされているように、「保田なるもの」は戦後も生き残り、それが現在の日本の<<国体>>にも深い影響を与えていると考えられる。保田はそのイデオローグというよりは、それを剔抉してくれる啓蒙者であるように、筆者には思われる。
 ということは、橋川の意見を参照すれば、現代日本を知るためにも保田の著作は押さえて置く必要があるということだから、読んで面白い面白くないは別として、A評価を進呈しておこう。

 ウィルソンのピューリツアー賞受賞作である本作、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」と並んで読んでおくべき本である。解説にも触れてあるように、本書は「遺伝子決定論」ではない。人間のさまざまな個人的・社会的な営みが、遺伝子に影響されている、または遺伝子を効率的に残すために組織されてきた、ということを述べているだけである。
 本書を読むと、フェミニズムというものは、結局生物が種の繁栄のために長い年月をかけてつくりあげた性差(社会的な役割の差を含めて)を可能な限り解消することを目指しているのだとしたら、それは結局種としての人間の衰退に繋がる(ま、別に衰退して消滅してもいいんだけどね・・・)ものだという気がしてくる。フェミニストにとっては仇敵でしょう、ウィルソンとドーキンスのふたりは。

>お久しぶり。

 お久しぶりです。

>だとしたら、これはもう、殉教というレベルを越えたといえるのかな。
>すでに快感?

 ピット・シューベルト「生と死の分岐点」(山と渓谷社)によれば、遭難しつつある人間は、低体温にせよ墜落にせよ、アドレナリン(というよりは、エンドルフィンじゃないかと思うの)が大量に分泌されるために、恐怖心や痛みは消失し、快感を感じ、それが生への執着をなくさせるのだとか。
 殉教者の根本的動機もそれでしょう。。。

>頂上に立った時がエクスタシーを感じるときなのかな?
>それとも、苦しくも登っているときなのかな?

 たぶん、あるプロセスを達成したときでしょう。通常は頂上ということになるのでしょうが、頂上にいるという事実よりも、そこまで6時間ちかい時間を何とか歩き通したというような。
 頂上に着いたら、そこには展望も何もなく(それはわかっていたけど)、あるのはただ真新しいベンチと、「皇太子登頂記念」の碑だけだとしたら、頂上踏破の精神的価値って・・・

>でも始めたきっかけはそうだったのかい?

 始めたきっかけは、中学生(たぶん)の時、父親に連れられて白馬の大雪渓を登った時に、たまたま同じくらいの女の子を連れた親子と一緒になり、その子の白いジーンズに包まれたお尻の映像が忘れられないから、かな? *^^*

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コメント (1)

アカヒゲ:

お久しぶり。

藪殉教者としての君の登山はずっと続いているようだね。
感心しているよ。

楽しさと喜びを見つけてしまったようだね。
だとしたら、これはもう、殉教というレベルを越えたといえるのかな。    すでに快感?

頂上に立った時がエクスタシーを感じるときなのかな?
それとも、苦しくも登っているときなのかな?

僕は誤解していたのかもしれない。
木の芽時期の、君の性的欲望を鎮める為の殉教登山だと思っていたから・・・・・。
でも始めたきっかけはそうだったのかい?
ぼくにだけ、こっそり白状したまえ。

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2008年06月17日 20:05に投稿されたエントリーのページです。

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