« 利尻岳登山 | メイン | 傷害罪&「イラク戦争のアメリカ」 »

「『難死』の思想」&「クレオール主義」

 たまには読書の記録もアップしておこう。

最近の読了
 小田実「『難死』の思想」岩波現代文庫 B
 今福龍太「クレオール主義」ちくま学芸文庫 B

 けっきょく、「読むのはむだではないが、さりとて深く印象づけられた」ということがない本は、この無難な評価になってしまう。
 筆者は小田の出世作「何でも見てやろう」はまだ読んでいない。どうも彼と鶴見俊輔のふたりは、その本業よりも「ベ平連」(一発変換!)の代表というイメージのほうがつよい。
 さて、この「『難死』の思想」の価値は、小田の文学あるいは政治的な立場が、終戦の一日前にまったく無駄に死んでいった死体を目の当たりにして「笑った」という彼の経験を基にしたものである、ということを理解することができる、ということに尽きる。
 筆者の疑問は、小田の「権力に抗する市民」が、「民主的に選ばれた政府による統治」にどうして常に優越することができるのか、という問題を、正面から小田が答えていないところにある。問題の提起は小田自身によってされているのに。つまり、「民主主義のルールはあくまで投票によって訴えることだ」というしごくもっともな(に見える)意見に対して、マイノリティ(あるいは多数者)による抵抗がどうしても必要だ、ということを示す必要があろう。

 「クレオール主義」はちょうど二十年くらい前に発表されて、当時話題を呼んだ本である。まさにポストモダン的な試聴のなかで書かれた本書、コロニアルな学問としての文化人類学に痛烈な批判を与えるものとして当時は歓迎されたのだろう。気の毒なことは、本書の魅力はそれだけではないにも拘らず、ポストモダンに対する反省、再批判が噴出してきているこんにち、さきに述べたような視点からのみ捉えられてしまうことであり、それは本書にとっての不幸であろう。
 本書の弱いところは、これがあくまで「文化人類学」(というにはもう少し著者の視点は広いのだが)の書である、ということだろう。クレオール主義という<<思想>>が成り立つためには、筆者には、<<クレオール経済学>>、つまり資本による周辺国の搾取、という図式が成り立たない、クレオール独自の経済が確立することが必要であるように思われるのだ。経済を離れた独自の文化の確立など、やはり筆者には夢物語に見えてしまう。結局はその文化はオリエンタリズムの対象となってしまうだけではないのだろうか。
 「オクシデントの資本を導入するだけではなく、それを先進国の方法で活用したり、あるいは土着の経済に投入するだけではなく、クレオール独自の経済発展の様式を作る」ことが求められているように、筆者には思われた。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://out-of-date.info/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1130

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

About

2008年07月06日 18:39に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「利尻岳登山」です。

次の投稿は「傷害罪&「イラク戦争のアメリカ」」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。