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玉ねぎの皮をむきながら

 バブルがはじける、とは、資本主義の自浄作用である、そう捉えるのが的確なのではないか、そう思ってきた。
 ほんらい、通貨と商品の関係は相互依存的であり、したがって行列式=連立方程式で表現される、そのようなもののはずだ。しかして通貨の総量が標準時のそれよりも過剰である場合にはそれはインフレと呼ばれ、逆に通貨の総量が過小である場合、それはデフレと呼ばれた。
 では、バブルとは?

 大量の余剰資金があるにもかかわらずそれがインフレを惹起していないのだとすれば(している場合もあるのだろうが)それは通貨の過剰と呼ぶよりも偏在と捉えるべきだろう。しかしそれがマネーゲーム・・サブプライムなど金融工学で作り出された多数の新商品への投資も当然含まれる・・によって、常識を超える高利で運用されるとするならば、具体的な付加価値を持った商品の登場にそれが結びつかない限り、通貨量と商品のあいだにアンバランスをもたらすはずである。つまり、「通貨価値の下落を伴わない通貨量の増大」である。バブルの崩壊によって、商品の喪失を伴わない大量の資産の消滅が起きるのであれば、これはまさしく自浄作用にほかならないのではないだろうか。

 バブルの崩壊は「南海泡沫事件」以来、繰り返し繰り返し生じてきた。そしてこのバブルとは、筆者には岩井克人氏の主張のように、「資本主義の鬼子」ではなく、「資本主義の本質的部分」であるように思われる。そしてそのバブルの尻拭いとして公的資金投入などの政府による市場介入が必要となるのであれば、バブルと無関係には一般庶民すら生きることができない、ということになる。そしてもし、ニューディールのように、「紙幣をたくさん刷って公共事業を大々的にやる」という不況対策が正解なのであれば、世の中では常に流通する通過量が不足しているのであって、貨幣価値の下落を伴わない通貨流通量の増加が理論的には可能なような気がするのであるが、こればかりは実際にモデルを作って思考実験をしてみないことには証明できない。それよりもマンキューやクルーグマン経済学書を読む方が早そうである。

 しかし、「バブルがはじけることこそ自浄作用」という思いは、消えそうにはない。

昨日の読了
 「日本の百年7 アジア解放の夢」ちくま学芸文庫 B
 ギュンター・グラス「玉ねぎの皮をむきながら」集英社 B

 さまざまな世相を活写しながら、日中戦争へと至る流れを語る本書は、たしかに迫力もあり面白いのだが、橋川一流のあの皮肉が陰を潜めているのが少々悲しい。ファンはそれを期待して読んでいるのだから。

 SSの少年隊員だった過去の告白書として話題を振りまいたグラスの本書、「日本の百年」を読んだ後でこちらを読むと、日独のちがいに驚かされる。たとえば、日本の戦後活躍した政治家、官僚、そして実業家は、ほとんど戦前のそれと顔ぶれが変わらないのである。岸信介はいうに及ばず、正力松太郎、十河信二などの名前をみるにつけ、日本において敗戦は、その国家の構造をいかに変えなかったかということが実感できる。おもうに、いかなる政治体制を選択しようとも、既得権を持つ(これは教育の力によって再生産を図るという意味も含めて)エリートには何ら影響を及ぼすことは、すくなくとも日本においてはなかった、そう考えると、1968年前後に全世界的な潮流が日本を席捲したときも、結局は何らをも変えることができなかったことも納得がゆく。イデオロギーの変革によっては再生産という強固な構造を変えることはできないのであろう。

 さて、グラスの本書、SSのことへの告白を除けば、自伝というよりは自伝のかたちをとった小説、ということがいえると思われる。なので、「衝撃的な告白」に焦点をあてることは端的にまちがいで、グラスの文体、表現に着目すべきなのである。本書は、グラスという等身大のオスカルによる小説なのである。それが正しい捉え方なのであろう。

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2008年10月16日 23:46に投稿されたエントリーのページです。

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