あいかわらず、報道は偏向しているようだ。まるで、移植に反対するのが悪であるかのように。
いうまでもなく、筆者は阿部知子議員が支持しているC案に賛成である。
こういう事態を想像するちからは、ないのだろうか。
たとえば、小児科医あるいは小児外科医が、比較的からだの損傷がすくない、頭部の病気を診ているとする。そして、救命可能性が極めて低いけれど、0%ではないとする。多くの場合、救命可能性は0%と言いきることは、むずかしい。
そこで、医師が、「この児は助かっても、植物状態かそれに近い中枢機能不全になる可能性が高い」と判断したとしよう。
この場合、医師はどのように動くのが正解なのだろうか。考えるまでもない。医師としての倫理は、「目の前の患児の救命に専念する」ことである。
しかし、このような選択がなされる可能性がないのだろうか。「植物状態の児をひとり作るよりは、臓器提供によって<<健康な>>児を救うことのほうが、価値の高い生命を残すことができる」と考え、治療をフェードアウトしてしまう可能性が。
というのは、当然ながら、諦めずに治療を粘れば粘るほど、臓器が損傷してゆく度合いは大きくなる。早々に救命を諦め臓器を温存する方針に切り替えれば、それだけ質の良い臓器が入手できる。
そして、臓器提供を増やせという社会的な圧力が、医師にそのような「生命の質」のチョイスをさせるような事態にならないとも限らない。いや、高知赤十字病院の事例は、一部で、「脳死からの臓器提供の第一号になりたくて、脳外科的に適切な処置を省かれた」可能性がある、という専門家の意見がある。つまり、そういう事態は、すでに起きている。
つまり、徹底的に重視されるべきは、ドナーにされようという患者の権利保護であって、移植を受けるレシピエントの利益ではない。
それを、まずはっきりさせるべきだ。
救命可能性が低い、あるいは後遺症が残る恐れが高い、ような患者/患児への、適切な(これらの患者の生命を救うための)医療行為がネグレクトされる事態、そういう事態がありえないと考えるならば、その人は医療の現場を、医療従事者の思考を知らなすぎる、善意の悪人である。「質の高い生命は質の低い生命を犠牲にしても尊重されるべきである」という、アメリカにおける倫理的極左(極右?)の議論を、日本に輸入しては、ならない。