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現代思想への抵抗

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 「思考のフロンティア 壊れゆく世界と時代の課題」岩波書店 C

 あえてCを付けよう。小泉政権を経てサブプライム危機にはじまる金融恐慌の中、派遣切りや生活保護の縮小などのセイフティーネットの破綻した時代において、求められる思想的な課題について討論している。

 ここでいやおうなく気付くことは、思想史上何人かの思想家が「大文字の思想家」として特権化されていることだ。いわく、カント、ベンヤミン、アーレント、ラカン、フーコー、アガンベンなど・・・小説家でいったらなんといってもカフカであろうが。そういった思想家の「思想」は、討議における前提として共有される。筆者には、そこが何よりも引っかかる。討議がこのような「大文字の思想家」の提出した思想なるものをお互いに引用しあっているだけにしかみえないからだ。結局、それらの特権化された思想家が引いたレールの上を走っているだけではないのだろうか。そこが、筆者には最大の疑問に感ずる。たしかに学問は先人の業績を抜きに成り立たないことはたしかであろうが、みなが同じ土俵の上で、それらの議論を(どこまで正確に理解しているかということは知るべくもないが)反復していて、何か解決に繋がるであろうか?

 もちろん、ここでの議論は、困窮している人たちには届かない、それは彼らも自覚しているとおりである。それならば何がいけないのであろうか? 筆者がおもうに、もし民主主義というものが、その建前通りに作動しているのであれば、少なくともセーフティーネットの崩壊といった事態は生じなかったはずである。ひとつの方法は、投票率を上げることで、政治が弱者のために再構成されるかどうか、見守ることであろう。少なくとも投票率を上げる運動をすることに、害悪は生じまい。現在の日本の投票率が仮に90%を超えるようになったとして、そこでも現状と同じ閉塞感、政治など誰がやっても変わりがない、という現実、議論が横行するようであるならば、それは民主主義(現在の日本が民主主義制度を採用しているということにするならば)の機能不全が原因である、ということになる。

 あるうる提案のひとつは、一部の他国で採用されているような、投票の義務化である。白票でもいいから投票所へ足を運ぶように、あるいは電子的な投票も使用できるように運用を改めて、すべての選挙権を持つ国民に投票をさせることである。もちろん、一部の宗教系の政治団体が、それによって一種フェアでない方法で票を伸ばす、ということがあるかもしれないが。

 とにかく、湯浅誠のNPOによる活動を評価するのはよいとして、NPOによる互助努力という方法で今を乗り切るということには論理的な無理がある。最大の力を持ち、民意を反映して国民(人民や市民と言ってもいいけれども)のために動くのは、現状では国家を超えたグローバルな存在であったり、あるいは地方政府だったりするわけではなく、何よりも国家、なのである。その国家を国民のために機能させるにはどうすればいいか、という議論なしに、NPOレベルの活動に期待を表明するのは、どう考えても本末転倒だ。

 筆者の主張は、何よりも焦点は「政府、あるいは民主主義の機能不全」に当てられるべきであり、国家や権力を対決すべき、信用ならないものとして把握することではなく、どうやって民意を反映したものへ変えていくか、が問題だということだ。その問題意識がなくては、ポストモダン的な議論を持ち出したところで、何の意味があろう?

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2009年07月12日 20:17に投稿されたエントリーのページです。

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