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和名倉山敗退

 実はたくさん古書を購入したのだが(大岡昇平と武田泰淳の、文庫になっている諸作品)それについてはまた触れよう。

 いきなり唐突に何を言うのかと思われるのかもしれないが、死ぬのが怖い。自分が死んでしまった後に、百年が経過すれば、自分のことを覚えている人間はすべて消滅し、さらに何万年か何億年か経てば、人類も一人残らず死に絶え、さらに時間が経てば、地球が消滅し、さらには
この宇宙そのものが消滅し、何もなくなってしまう・・・時間や空間でさえも(この理解は正しいだろうか?)。つまり、自分が生きているというこの事実そのものが何の意味もないものと化してしまうのだ。

 そういうことを考えはじめると、実生活に支障を来すだけでなく、恐怖のために日常を楽しく過ごすことの障碍となる。決して褒められた思想ではない。それよりも、いっときの高揚のために、冬山にその命を散らす、そのような生き方のほうが生の効率はよいのかもしれない、そんなことも考える。


 和名倉山は大きな山だ。その巨大な山容に、ルートの確立している将監峠からのものを選ばずに、北面の、しかもポピュラーでない川又からのルートを選んだ時点ですでに敗北は決定していたのかもしれない。

 そもそもこの川又道の最も難しいところは、取り付きなのだ。この取り付きは、前もって知っていない限り、薄暮に見つけるのは至難だ。川又バス停からすぐに川に下り、吊り橋を渡って(この吊り橋は地形図には記載されていない)、地形図に記載のある沢沿いに進んでいくと、左手の植林の中に入っていく道を見つけられよう。いったんそこまで到達してしまえば、親切な赤テープ(東大のひとたちが演習林のために設けたものだろうか?)があって、道迷いはほとんど考えられない。筆者のように、吊り橋を渡って、そのまま強引に1058mを目指そうとなんかしなければ。地形図の通り、この斜面をまともに登るのは非常に困難だ。まだしも、滝川ー入川分岐部の尾根から登るほうがましだ。この尾根には、道はあるのだろうか。

 すうじいさんの「和名倉山概念図」によれば、地形図の1173mピークのあたりで、左から登ってくるルートに合流し、さらに1669mへ至る、超急峻な尾根を避けて、1558.6mを擁する巨大な尾根の手前で、1669m-1762mピークを結ぶ尾根に這い上がるはずである。事実、道はそのように付いていた。1173mからすぐに道は尾根を右に外し、延々トラバースを繰り返した後、その尾根の中間のあたりでジグザグを繰り返し、尾根に這い上がる。それから尾根のピークを外して右側(=西側)を伴走すると、1762mピークへ出る。ここから道は尾根の左側(=東側)へと位置を変え、おまけに尾根の走行が変わるから、このポイントはすぐに特定できよう。

 1762mからちょっと下った鞍部が、ヒルメシ広場である。ここの到着が11:30。すでに七時間歩いている。ここから頂上までは300mのアルバイトしかないが、ラッセルを繰り返し登ってゆくことを考えると、ここから山頂まで四キロ程度の道のりを、二時間でゆくのは至難といえよう。断腸の思いだが、ここで引き返した。

 この尾根、自然林が豊富で、「植林だらけの山」というイメージを覆すだけでなく、いったんルートに乗ってしまいさえすれば、悩むこともなく、一般登山道並に明瞭である、という意味で、おいしい登山道と言えるだろう。世間的に知名度が低いのは、何か政治的な意図(あまり登って欲しくない)があるのだろうか。それとも、単に地理的な問題なのか。

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2010年03月16日 22:00に投稿されたエントリーのページです。

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