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いのちの代償&東電OL殺人事件

 前者は友人より譲り受けたもの、後者はいま話題の東電についての本を物色している途中でみつけたもの。

最近の読了
 川嶋 康男「いのちの代償」ポプラ文庫 B2
 佐野眞一「東電OL殺人事件」新潮文庫 B3

 前者から。1962年に大雪山で起きた大量遭難で10人が死亡し、リーダーの野呂幸司だけが
生き残った事件の全容と、その後の野呂の人生についてのノン・フィクション。直接手を下したわけではないにせよ、10人の死に全く責任がないというわけでもなく、、、どんな生き方をしても批判はついて回るのは当然とはいえとても気の毒でもある。
 倫理的なポイントは二つある。一つは、亡くなった大学生の親たちが、どのように癒されてゆくのか。もうひとつは、野呂自身がどのように自分を癒してゆくのか。前者のほうは比較的簡単である。殺人事件の遺族と同様に、「犯人」である野呂を「許す」ことでしか、遺族は救われない。これは論ずるまでもないだろう。問題は、後者である。野呂は、自分自身を許せているのか。60代に差し掛かって、ようやくそのような気持ちにもなってきたような描き方がされている。
 言うまでもないが、これだけの大惨事を起こした責任は免れないにしろ、野呂がそれから幸せに生きてはならない、幸せに生きることを禁じられている、ということは、ない。なぜなら、「その後」の生き方が、死者に影響を与えることはないからだ。また、遺族に与える影響も無視してよいのではないだろうか。もちろん、何らかの「弔い」にあたる行動を期待したくなるのかもしれないが。
 すると、最終的に起業家になり、ハンディキャップを負ったひとびとを支援する活動を続けている、という彼の生き方は、それなりに評価に値するといっていいだろう。
 なんと結論づけたらいいのかわからないが、本書の問いかける質問は、重い。

 「東電OL」のほう、内容はまずくないのだが、著者の文章力に引っかかる点があり。各章末に、「○○の幻影を見た、と思った」と付けるのが鼻についたり、一番引っかかったのが、「アドレナリンが分泌される」のあとに、「われわれの副腎皮質が刺激される」と続けているところ。アドレナリンは副腎「髄質」から分泌されるのに。
 細かいことと思わないで欲しい。学問的に正確な記述を心がけることはジャーナリズムの基本ではないか。アラン・ソーカルではないが、学術的に正確を期すことはライターの必須事項。筆者は、萎えた。

 真犯人ですか・・・本文中ではイラン人ではないかということがほのめかされていましたが。
 たしかに、殺人を犯すリスクとそれによって得られる代価を考えると、外国人による犯行と考えるのが自然かもしれませんね。
 ところで、ご存知と思いますが、高裁で判決がひっくり返り、上告が棄却されたため実刑が確定しましたが、現在再審請求がなされ、無罪となる可能性が出てきました。
 もし死刑となっていたら、、、ということで、やっぱり技術的な観点だけからしても、死刑は廃止しなければならないのでした。

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コメント (1)

元山村:

ところで結局、真犯人は誰なんでしょ?

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2011年04月18日 20:59に投稿されたエントリーのページです。

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